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何のために生き、何のために死にますか
by.CGNTV
hit 286 recomend 131 2020-04-20 23:10:46

何のために生き、何のために死にますか

 

 

ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師

 

 

[ マタイの福音書20章17~19節 ]

 

なぜ世に生まれ、何をするために今ここに存在しているのか、

なぜ結婚し、子どもを育てているのか、考えてみたことがありますか。

 

 

「さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります』」(マタ 20:17~19)。

このみことばから、イエス様は、ご自分がどのように死ななければならないかを、はっきりと知っておられたことが分かります。それは、ご自分がなぜ世に来たのかを正確に知っておられたということも意味しています。イエス様が世に来られたのは、死ぬためでした。多くの人々は、生きるために様々な努力をします。安定した暮らしをするため、幸せに暮らすために、成功して有名になるためにがんばって生きています。しかし、イエス様は、ご自分が世に来た目的は死ぬためであり、いつ死ななければならないかもご存じでした。

ガリラヤでの働きにより、イエス様は人気絶頂でした。死んだ者が生き返り、病人が癒やされ、荒波が静まるなど、みことばが語られるたびに驚くべきみわざが起こりました。イエス様の周りには人々が群がり、拍手喝さいが起こりました。しかし、イエス様はご自分の時を知り、ガリラヤの働きを終えてエルサレムに行かれます。

では、イエス様の目標、つまり本質的な働きは何だったのでしょうか。それは、十字架で血を流し、死ぬことでした。十字架で罪人たちのために永遠の贖罪を一度で成し遂げることにありました。そのことを、イエス様は一度も忘れたことがありませんでした。それで、最も人気絶頂の時に、エルサレムに行かれることを決心されたのです。それまでは、多くの大衆に会っておられましたが、イエス様はもはや大衆を相手にはせず、選ばれた少数の人々に会い、彼らを教えられました。

 

何のために生きるのか

では、私たちの人生の意味と目的は何でしょうか。なぜ自分が世に生まれ、何をするために存在しているのか、また、なぜ結婚し、子どもを育てているのかということを考えてみたことがありますか。ある人々は、子どもを立派に育て上げることを人生の目的としています。しかしそれは、難攻不落の要塞を目的として前進していた人が、途中でほかのことに夢中になるようなものです。結婚や仕事が私たちの人生の目的なのでしょうか。いいえ、違います。私たちは、子どもを育てたり、事業をしたりするかもしれませんが、それらは、私たちが何かの目的に向かって行くための過程にすぎないのです。それらは、私たちの人生一時的な目標にすぎません。

人生の意味と目的を見失ったまま現実に安住して生きていくなら、人生を一つの運命として受けとめます。「こういう運命なのだ。この人に会ったのも運命だし、この人と結婚したのも運命なのだ。運命には逆らえない」と言って、あきらめて生きていくのです。そして、自分はその運命から逃れられないと考えます。また、少々哲学的に「人生というものは、無意味だ。一つの虚無だ。私たちは、深い虚無の河を渡っているだけだ」と考える人もいます。神はいないと信じている人々には、「人生は一つの運命だ。一つの本能だ。私たちは、肉体を持っているから、ただ動物のように食べ、子を産んで生きるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」と思って生きていきます。また、死ねないから生きているという人もいます。

あなたは、今どのように生きていますか。あなたの人生を運命だと思いますか。虚無だと思いますか。一つの本能のように生きていますか。それとも、死ぬ時に「アーメン、ハレルヤ!」ということのできる、明らかな人生の意味と目的を持って生きていますか。

今日の本文のみことばを見ると、イエス様は、世に来て、神の御子として、いつどのように死ななければならないか、何のために生きなければならないかを、はっきりと認識しておられました。クリスチャンは、自分のために生きる人であってはなりません。

 

何のために祈るのか

ところで人は、祈るときに自分の姿が明らかになります。「父なる神様!」と切に呼び求め、「私に信仰と健康を与え、聖霊で満たしてください」と祈ります。振り返ってみると、すべて自分のためのことばかりです。もちろん、信仰の初期段階では、自分という枠から抜け出すことはできません。それで、少し信仰深い人は「主よ、わが民をお救いください」と祈ります。それは、実に聖なる祈りのように見えます。しかし、それでも自分の民族という枠から抜け出すことはできていません。

教会には、実に危険な壁があります。自分の教会という壁、自分の教会だけを祝福してくださいという祈りの壁から脱皮することができないのです。主の教会というふうには考えられません。隣の教会のことを考えることができません。病んだ教会のことを考えることができません。祈ることも、自分の民のためだけに限られています。自分と関係のない人々のために、神様の視点で祈る人を捜すことは、容易ではありません。

ある人は、「自分のことだけでも大変なのに、人のことまで世話しろというのですか」と言います。そして、海外宣教することを批判します。しかし、それは、自分という利己的な信仰の枠から抜け出せない人です。自分と関係のない人、自分と関係のない民族のために自分の人生を献げ、人生の目的を神様から受け取って生きている人々は多くないことが分かります。

私たちが神の人であるなら、神様の思いを抱かなければなりません。神様が関心を持っておられることに、私たちも関心を持たなければなりません。使徒パウロがそのような人でした。彼はユダヤ人でしたが、異邦人のための選びの器として召されました。彼は同族に憎まれながらも、福音を聞いたことのない人々のために生涯、歩み続けました。ローマ人への手紙の中で、パウロは次のように言っています。

「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ロマ 14:7~8)。

私たちもパウロのように「主よ、主のために私が人生を決めていけますように。主が私の人生のすべてです」と告白できるようになりましょう。私たちは、自分の人生をはっきり整理するべきです。「私は自分のために生きているのではなく、主のために生き、主のために死にます」と言えるようにならなければなりません。

イエス様は、30歳で召しを受け、聖霊の油注ぎを受け、3年間、働きをされました。そして、33歳で神様のみこころを確認し、死ぬことを決められました。人々からの称賛や人気、拍手喝さいには見向きもせず、静かに死に向かって人生の方向を変えられました。そのようにしてエルサレムに向かわれたイエス様の姿に込められたメッセージを読み取る私たちになりたいものです。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年4月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

 

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