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旧約聖書の宣教の話(2)
by.CGNTV
hit 632 recomend 126 2020-04-29 09:07:23

旧約聖書の宣教の話(2)

 

 

ド・ユッカン Duranno 海外宣教会(TIM)理事

 

 

聖書が「宣教の書」であり、神が「宣教される神」であることは、聖書を黙想するにつれ明らかになっていきます。私たちが宣教的な観点を見逃していると、旧約聖書はイスラエル民族の話としてしか見えません。最初の人が罪によって神から離れた直後から神の宣教は始まり、終末を見据えている今日まで続いています。世界宣教という人類の救いの計画は、旧約時代から始まっていました。

宣教は、2つの力が交差しながら進められています。内側に集まる「求心力」と、外に広がる「遠心力」です。旧約時代にも例外なく、この2つの力が共存していました。

まず、イスラエルを集める「求心力」が働きました。イスラエルが一国家として形成される前から、多文化圏の宣教は始まっていたのです。出エジプトの時には、共同体の中にヘブル人以外に多くの異邦人が入り混じっていました(出 12:37~38)。彼らは、10の災いを下される神の力を目撃してヘブル信仰共同体に入って来た人々でした。彼らもともにシナイ山で十戒と律法を受け、新しい契約にあずかりました。この「求心力」の中心には礼拝がありました。荒野の主の幕屋とエルサレムの神殿は、礼拝の中心でありながら、異邦民族が神の前に出ることができる場でした。ソロモンが神殿を奉献するときにささげた祈りでは、神が一部族のためだけの神ではないことが宣言されています。「同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、……この宮に向かって祈るなら、……その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください……」(Ⅰ列 8:41~43)。神殿は、初めて奉献された時から異邦人にも開かれた空間でした。エルサレム神殿が「あらゆる民の祈りの家」(イザ 56:7)と呼ばれる理由です。

五旬節の日、あらゆる国々からエルサレムに来て住んでいたユダヤ人たちが大勢集まり(使 2:5)、使徒たちの伝える福音を「それぞれが生まれた国のことばで」聞いたことは(使 2:8)、決して偶然ではありません。モーセのしゅうとであり、異邦の祭司であったイテロは主をほめたたえ(出 18:9~11)、悪しき異邦の預言者バラムも主の御名があがめました(民22~25章)。シバの女王は知恵の王ソロモンのもとを訪れ、ツロの王ヒラムは主の神殿建設に必要な材料を提供しました。求心力によって成し遂げられた宣教の例です。

旧約時代の宣教のもう一つの側面は、「遠心力」、つまり外に広がっていく力です。この力は、イスラエル共同体の外に主のみこころを広げていく力です。遠心力は、おもに非自発的な宣教によるものです。ニネベに滅亡を宣言せよという命令を受けても、タルシシュに逃げようとした預言者ヨナに見られるように、異邦の地に対する神の計画は、不従順な者を立ち返らせてでも必ず成し遂げられます。イスラエルは、アブラハムの契約を持った祭司の国として建てられました。しかし、与えられた使命に従わないとき、神はイスラエルの民をエジプトとバビロンに捕虜として追放してでも異邦の地の祝福となるようにされました。ヨセフは奴隷でしたが、自身の家族だけでなく、エジプトの民を激しいききんから守る役割を果たしました(創 45:7~8)。ダニエルも、バビロンとメディア族の4人の王に仕える総理として、神を証しする役割を担いました。アラムの王の将軍ナアマンの奴隷であったイスラエル人の娘が主人をエリシャのもとに導き、神への信仰を告白するようにしたことは(Ⅱ列 5:1~17)、非自発的な宣教の良いモデルだと言えます。エステルも散っていた同族を救い、神の驚くべきご計画を異邦人世界に示しました。

このように、旧約時代にも求心力と遠心力によって宣教が進められていました。このダイナミックな力は、2千年の教会の歴史から今日に至るまで、教会を通して現れています。日本や韓国、アメリカには、経済力に引き寄せられて多くの移住民が集まっています。彼らは、私たちの近くにやって来た新しい「地の果て」です。また、グローバル時代を迎え、私たちは学問や仕事、結婚という多様な遠心力によって散っていきます。それらすべての機会は、神の国を広げるための道具として用いられるのです。

旧約時代に活動した預言者は、全世界的な神の計画をよく理解していました。特にイザヤは、イスラエルの神が自国の神であると同時に、すべての民の神であると宣言しました。イザヤ書を見てみましょう。「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ」(イザ 2:2~3)。これは、すべての民に十字架を通して救いの道が開かれるという預言です。中心はエルサレムですが、その恵みはすべての民へと広がっていくのです。イザヤは、すべての民に対する神の目的と、異邦人が自発的に神のもとに出て来る日を預言しています。また、メシアを通して神の救いが完成される日に新しい秩序が臨むと預言しています。「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす」(イザ 11:6~8)。強国の圧制下で苦しむイスラエルを解放させるという意味だけでなく、究極的な救いの恵みがすべての国と民に与えられるという意味も含まれているのです。これに続く預言を見てみましょう。「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」(イザ 11:9)。宣教が完成するとき、海をおおう水のように、主を知ることが地に満ちるという希望の宣言です。

預言者ハバククも、似たような預言をしています。「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる」(ハバ 2:14)。主を知ることとは、すなわち主の栄光を知ることです。この預言のように、そのような知識が全地に満ちる日が来るでしょう。ですから、宣教は、いつも肯定的な結論を前提に進められていきます。

では、どのように全地が神を知ることで満たされるのでしょうか。「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る」(イザ 52:10)。主は、すべての国々の目の前に聖なる御腕を現されると言っておられます。宣教は、神がなさることです。教会が献身し、ある個人がいのちをささげて献身したからといって、宣教が進むわけではありません。もちろん、神の国のためにそのような献身と労苦は欠かせません。だれかは神の召命に応えるべきであり、喜んで人生をささげるとき、神の国が広がっていきます。しかし、究極的な意味で、宣教は神の御手にかかっています。天で行われたみこころは、地でも必ず行われます。

神は、ある個人や共同体を通して宣教を行われるとき、それが自発的であるか非自発的であるかということに影響を受けられる方ではありません。神の宣言を聞いてみましょう。「わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない」(イザ 42:8)。

ペリシテ軍によって神の箱が奪われたとき、神は無力に見えましたが、神の箱が異邦の神ダゴンの神殿に置かれたとき、神はダゴン像の頭と両足と胴体を切り離して倒し、それによってご自分の力を自ら証明されました(Ⅰサム 5:1~4)。神がご自分の栄光ときよさを守るために私たちの助けを必要とされたことはありません。主は自ら存在される神だからです。「わたしは彼らのわざと思いを知っている。わたしはすべての国々と種族を集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る」(イザ 66:18)と言われました。神は、すべての国々と種族にご自分の栄光を見せられるでしょう。

すべての人類に対する神の愛の完成のしるしは、十字架です。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ 5:8)。私たちに救われる資格がなかったときにも一方的に神の恵みが臨み、私たちは神のひとり子の栄光を見て、救われたのです。同時に神は、ご自分の民に使命を委ねて、神の聖なる働きに与ることができる特権を与えてくださいます。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す」(イザ 42:6~7)。私たちを召されるときも、私たちに資格があるからではなく、ご自分の義に基づいて召し、使命を与えてくださるのです。また、使命を委ねた後も放っておかず、手を握り、見守り、契約の民として、国々の光として歩ませてくださいます。究極的に世を癒やし、回復させる使命を私たちに委ねてくださるのです。ですから、イザヤ書には、メシアに対しての預言が最も多く記されており、同時に最も宣教的な預言書だと言うことができます。

ヨナを通して示してくださった神のみこころは、世界に対する神のあわれみです。実に自己中心的なヨナの心に神の思いを示されました。「主は言われた。『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか』」(ヨナ 4:10~11)。神は、悪しき都ニネベをあきらめませんでした。尊く思い、愛しておられました。神は、ご自分の民である私たちがそのような思いをもつことを願われます。ヨナの告白のように、神は「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方」(ヨナ 4:2)であることを知らなければなりません。

旧約聖書の最後の書であるマラキ書には、救いの日についてこのように宣言されています。「日の昇るところから日の沈むところまで、わたしの名は国々の間で偉大であり、すべての場所で、わたしの名のためにきよいささげ物が献げられ、香がたかれる。まことに、国々の間で偉大なのは、わたしの名。──  万軍の主は言われる ──」(マラ 1:11)。神の御名が国々の間で偉大になる日はすでに到来し、また完成に近づいています。私たちは、結果を知って見ている録画放送のような世を生きています。宣教はいつか完成します。私たちはパズルの完成品を見ながらピースを合わせていっているのです。また私たちは、聖く栄光に満ちた完成の日のために生きるよう召されました。これよりも幸いな人生はありません。「幸いなことよ / 主を自らの神とする国は。神がご自分のゆずりとして選ばれた民は」(詩 33:12)。

 

 

ド・ユッカン

韓国 長老会神学大学院(神学修士号)。

米国 フラー神学大学院(宣教牧会学博士号)。

韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。

Duranno 海外宣教会(TIM)理事。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年4月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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