偽りの平安 | |||||
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幻の二つめの場面は、地を行き巡った馬が木の間に立っている主の使いに報告する内容である。
ゼカリヤ1:11-12 すると、これらは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えて言った。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。」
主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」
地を行き巡った馬が木の間に立っている主の使いに報告する。この主の使いは、三位一体の第二位格である、子なる神イエスである。「全地は安らかで、穏やかでした」という報告に、子なる神イエスが父なる神に嘆願する。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、70年になります」。主の使いは、神がエレミヤを通して与えられた回復の約束を想起させている。70年後には捕囚から帰らせるという約束である。神の約束どおりであるならば、このようにエルサレムと諸国の姿が対照的であってはならないというのである。
全地は安らかで穏やかなのに、なぜ主の使いが神に嘆願するのであろうか。主の使いは不憫なのである。エルサレムは荒廃したままで、神殿は放置されたままなのに、エルサレムを荒廃させた諸国が安らかなことに、義なる憤りを覚えたのである。
このような状況は、神の民には疑いと失望をもたらし、敵にはさらに高ぶってもよいというしるしとして受け止められる。何よりも神の約束と矛盾しているかのように見える状況である。それで、主の使いが民に代わって神に嘆願しているのである。ところが、ここで敵が「安らかで、穏やか」であったことは、神の御心の中で味わう平安を意味しているのではない。偽って高慢に安らかなふりをしていることを意味する。15節の「安逸をむさぼっている諸国の民」で「安逸」は、高慢な心で“偽りの平安“を味わっている状態を意味する。イスラエルも、滅亡する前、このような偽りの平安を味わっていた。
エレミヤ8:11 彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
宗教改革者ジャン・カルヴァンは、このような状態のことを“のろわれた幸福”と表現した。神の秩序に従って味わう平安ではなく、神の秩序を破壊し、罪の中で味わう一時的な安逸だからである。
イスラエルの歴史よりも汚れて醜悪な歴史を持つほかの国々が神のさばきを受けず、穏やかで平安のうちにあることは、信仰において大きな試みとなる。自分よりももっと悪い者は何事もなく安らかに暮らしているのに、彼らよりもはるかにましな自分が、ある問題で神から懲らしめられているなら、信仰の試みに会うのは当然ではないだろうか。しかし、自分よりも悪い者たちが平安だからといって、うらやんではならない。神は彼らの邪悪な安逸に対して大いに怒ると言われた。
ゼカリヤ1:15 「しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わかしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行った。」
神はご自分の民を懲らしめるために諸国の民を用いたが、邪悪な諸国の民は過度に彼らを苦しめたと、聖書は語っている。神は、ご自分の御心を外れて、自分たちの邪悪さによってエルサレムを過度に苦しめた彼らをさばくと言われた。生きておられ、すべてのことを統べ治めておられる神は、悪者たちの安逸と偽りの平安を壊してさばかれる。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。