わたしはあなたを激しく愛した | |||||
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幻の三つめの場面は、幻の中で最も感動的な部分である。神が御使いに恵み深い慰めのことばを伝えられる内容である。
ゼカリヤ1:13-14 すると主は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。』」
御使いを通して与えてくださった神の慰めのことばは、神がエルサレムとシオンを激しく愛したという内容である。「ねたむ」は“あまりにも情熱的に愛する“という意味である。神はエルサレムを激しく愛するあまり、どうされたであろうか。彼らの罪をそのまま見過ごさず、さばかれた。神の愛は聖なる愛、義なる愛だからである。
彼らがバビロンに捕囚として連れて行かれるさばきを受けたのは、神が彼らを激しく愛されたからである。さばきの過程を通して彼らの罪悪を正すことが、神の愛なのである。神は、捕囚となったイスラエルの民をいやすと約束された。神のいやしのプログラムが捕囚生活だったのである。
エレミヤ30:17 「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。−主の御告げ− あなたが、捨てられた女、だれも尋ねて来ないシオン、と呼ばれたからだ。」
エレミヤ33:6-9 「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」
私たちを激しく愛される神は、時には私たちをいやすために私たちを懲らしめ、さばかれる。それゆえ、どんなに罪を犯し、悪を行っても、懲らしめのさばきがないならば、それは神から見捨てられた証拠である。
神は、時として、私たちの失敗を新しい始まりの機会に変えてくださる。死は、人間の罪による神のさばきであると同時に、神が人間をいやす道具でもある。
ヘンリ・ナウエンは「死は神が与えてくださった最も大きな贈り物」であると言った。どうしたら、死が最も大きな贈り物となるのだろうか。彼は次のように説明している。もし人間に死がないなら、人間は神と断絶した状態、霊的に死んだ状態で永遠に生きただろうし、新しいいのちを得る機会も得られなかっただろうというのである。神は、罪に対する代価として人間を死なせることにより、人間が霊的に死んだ状態で永遠に生きるようにせず、肉体の死によって霊的に死んだ人生を終わらせ、永遠のいのちを生きるようにされたというのである。結局、死は、神が与えてくださった第二の機会であり、罪の中にある人間をいやし、回復させてくださる神の愛の道具なのである。
愛はあきらめない。それで、神は、あわれみの心によりエルサレムをあきらめず、再びエルサレムへ帰って回復させると言われる。
ゼカリヤ1:16-17 「それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。−万軍の主の御告げ−測りなわはエルサレムの上に張られる。』もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」
16節から17節でくり返される単語に注目しよう。まず、「万軍の主」という単語がくり返されている。これは、全地を統べ治めておられる神のことばは必ず実現するということを強調している。次に、エルサレムを指して「わたしの宮」「わたしの町々」とくり返されている。ただの神殿ではなく主の神殿であり、ただの町々ではなく神の町々なのである。神のものであり、神が守り、神が顧みられる町なのである。最後に、「再び」という単語がくり返されている。「再び」主の町々に良いものがあふれるようになり、「再び」主がシオンを慰め、「再び」エルサレムを選ばれるのである。「再び」は恵みと同じことばである。恵みにはいつでも「再び」がある。恵みの中ではいつでも再び始めることができる道がある。恵み深い神は、エルサレムを再び選んで、その中に神殿を建て、その町があふれるほど豊かになるようにすると言われる。
しかし、現実はそうではないと言う人もいるであろう。エルサレムの現実はどうなのだろうか。町は荒廃したままで、神殿再建はほど遠いことのように感じられ、民は見捨てられたかのようであった。しかし、神が再び選ばれるなら、神が再び慰められるなら、その町の現実がどうであれ、町は再び回復され、豊かに暮らせるようになり、主の神殿は再建される。
現実の困難があまりにも大きくて、とうてい回復されないように思えるであろうか。だとしたら、この幻を信仰によって信じよう。その現実の困難が罪による神の懲らしめであったとしても、神が私たちを激しく愛しておられるということを信じよう。そして、神があわれみ深い恵みによって私たちの人生と家庭に霊的な神殿を再び建て、回復させてくださることを信じよう。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。