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聖書が語る罪とは何ですか
by.CGNTV
hit 3292 recomend 106 2021-03-15 14:27:55

聖書が語る罪とは何ですか

 

 

ベク・チュンヒョン 長老会神学大学 組織神学 教授

 

 

罪と聞くと、まず法を犯す「犯罪」が思い浮かびます。しかし、犯罪は、人が犯す多様な形態の罪をすべて包括しているわけではないので、罪を定める完全な基準にはなりません。法が定めた罪は、時と場所によって変わります。ある場所では罪になることが、ほかの場所では罪にならないのです。以前は罪でしたが、現在は罪でないものもあります。「何につけても金が物を言う」ということばからも分かるように、同じ罪を犯しても罪を犯した人の背後にだれがいるかによって、罪になったり、ならなかったりするのが現実です。そのため、犯罪だけを罪と考えることは、罪を正しく見ることができない偏狭な見方です。見た目は正しいことでも、実はその動機が悪である場合もあります。平和を叫びながら戦争をするのが、人間という存在です。ですから、罪が何であるのかを正しく知るためには、何よりも人の「心」がどうであるかを知らなければなりません。聖書は、この問題について明快に答えています。「人の心は何よりもねじ曲がっている」(エレ 17:9)。イエス様も「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」(マコ 7:21~23)と言っておられます。行いの原因は心にあるということです。罪は、罪を犯す人の心から出るのです。

 

心に注目される神様

創世記の善悪の知識の木の話は、罪に対する聖書の立場を示しています。神様は、エデンの園を造り、善悪の知識の木を置かれました。そして、アダムとエバに、園のどの木からでも食べてよいが、善悪の知識の木からは食べてはならないと命じられます。ところが、アダムとエバは、蛇にそそのかされて神様が禁じられた実を取って食べてしまいました。私たちが注目すべき点は、木の実を食べたか食べなかったかではありません。この実を食べた彼らの動機、つまり心がどうだったかです。彼らは、善悪の知識の実を食べれば目が開かれ、「神のようになって」善悪を知る者となるという蛇のことばに惑わされました。すると、神様が禁じられた木の実が「食べるのに良さそうで」、「賢くしてくれそうで好ましく」見えました。蛇がアダムとエバを誘惑する前、彼らにはすでに「神のようになりたい」という思いがあったのです。それで、神のみことばに対する信頼が揺らいだのです。

全世界を造られた神様は、ご自分のかたちに似せて人を造られました。神様の創造目的は、人がご自分のみこころとみことばに従って自由に生きることでした。しかし、アダムとエバは蛇の誘惑によって心の中心から神様を追い出し、「私」を置きました。聖書は人の心について次のように診断しています。「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです」(ロマ 1:28)。罪によって神様と人との間に深い実存的な溝が生じたのです。人は罪から自由になれない存在になってしまいました。

 

罪人を呼ばれる神様

神様は良い方です。ダビデは「あなたは悪を喜ぶ神ではなく / わざわいは / あなたとともに住まないからです」と歌いました(詩 5:4)。パウロは「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と言っています(ロマ 3:23)。しかし神様は、罪によって生じた実存的な溝を放っておかれませんでした。その溝を埋めようと、神様ご自身が人となって罪人のところに来られました。そして、イエス様は、心の奥で罪の重荷に苦しんでいる者たちを呼ばれました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます……そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタ 11:28~29)。このことを通して私たちは、この世に対する神様の愛を感じ、永遠のいのちの道を見出すことができます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ 3:16)。

私たちは聖霊の導きに従い、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分け」なければなりません(ロマ 12:2)。このような生き方が、罪から離れて真の自由を味わう人生です。また、行いの原因である心を守るためには、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを……抱きなさい」(ピリ 2:5)とあるように、へりくだってご自分を無にし、十字架の死にまで従われたイエス様に従う弟子にならなければなりません。

 

 

人の行いの原因は心にあるため、

罪は罪を犯す人の心から出るのです。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年3月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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