角をもたげる高慢がさばきを受ける | |||||
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ゼカリヤ書1章18節から21節は、ゼカリヤを通して与えられた八つの幻のうち、第二の幻を描いている。第二の幻が意味するところは非常に明白である。神の民を散らして苦しめた周辺諸国を、神がさばかれるというのである。
第一の幻で、神は、「エルサレムとシオンをねたむほど激しく愛した」と慰めると同時に、「安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る」と言われた。当時、神の民はまだ弱く、国家として回復されていなかっただけでなく、神殿は再建工事を中断したままで放置されており、町は城壁もなく無防備状態であった。しかし、イスラエルをそのようにした諸国の民は、安逸に偽りの平安を味わっていた。それで、神は、ご自分の民に向かって「ねたむほど激しく愛した」という慰めのことばを与えつつ、安逸をむさぼっている諸国の民に対して大いに怒ると言われたのである。
第二と第三の幻は、第一の幻で語られたこの二つのことばが具体的に実行される幻である。安逸をむさぼっている諸国の民に対する怒りは、第二の幻の中でそのさばきが実行される場面を通して具体的に現れ、エルサレムとシオンをねたむほど激しく愛されたという慰めのことばは、第三の幻の中でエルサレムが再び栄えて拡大する幻を通して具体化されている。神の愛も、神の怒りも具体的なものである。神の愛と怒りは、口ばかりの怒りではなく、必ず歴史の中で具体的に実行されて現れる。
ゼカリヤ1:18-20 私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。私が、私と話していた御使いに、「これらは何ですか」と尋ねると、彼は私に言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ。」
第二の幻の内容はこうである。ゼカリヤが目を上げて見ると、四つの角が見え、御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、御使いは「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ」 と解釈してくれた。その時、神が「四人の職人」を見せてくださった。再びゼカリヤが「この者たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、今度は御使いではなく、神が答えてくださった。
ゼカリヤ1:21 私が、「この者たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主はこう仰せられた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ。この者たちは、これらの角を恐れさせ、また、ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来たのだ。」
四つの角を四人の職人が打ち滅ぼすというのである。角は、聖書では常に力と権勢を象徴する。どんな動物の角かを明かしていないのは、角というだけでも十分にその意味が伝わるからである。
角が力と権勢を象徴するからといって、必ずしも否定的な意味としてだけ用いられるわけではない。詩篇18篇2節では、神のことを「わが救いの角」と表現し、詩篇92篇10節では「あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました」と告白している。力と権勢自体が悪いものではない。その力と権勢がどのように用いられているかが重要なのである。神に尊く用いられる角は、神が力と権勢を与えて高く上げてくださる角である。神があなたの救いの角であることを経験し、神があなたの角を野牛の角のように高く上げてくださることを願う。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。