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荒野    
by.CGNTV
hit 485 recomend 179 2017-05-08 14:03:39

荒野         

 

パク・ジョンギル   ソウル・オンヌリ教会 ソビンゴ担当牧師

 

人生には二つの顔があります。喜びのときもあれば悲しみのときもあり、成功するときもあれば、失敗するときもあります。栄光もあれば苦難もあり、恵みもあれば試練もあります。健やかなときもあれば病のときもあり、幸せなときもあれば不幸なときもあります。平らで順風満帆な道を歩むときもあれば、困難でつらい荒野の道を歩むときもあります。
ふつう人々は、荒野よりもオアシスを、波風よりも追い風を好みます。しかし、ほとんどの人の人生には、消したくても消すことができない傷や痛みの時間のほうが多くあります。
人生の宝探しの4つ目は、「荒野」です。荒野を好む人はいません。かえって、なんとしても荒野を抜け出そうと努力し、荒野に行かないようもがきます。荒野は、捨てられた地、居心地の悪い環境、荒涼とした所なので、苦難の象徴でもあります。人生で荒野に出会ったら、挫折し、絶望して倒れてしまいます。
ところが、聖書をよく見ると、荒野はのろいではなく、祝福の場所であるように思えてきます。神様は、私たちを荒野へと導き、そこで出会ってくださり、そこで訓練すると言っておれます。神様は、モーセを通して「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」(申 8:2)と言われました。荒野は、つらく苦しい所ですが、私たちの人生において、明らかに隠された宝なのです。荒野を宝として見ることができる視点と態度を持つことが重要です。
荒野に対する神の目的は三つです。第一に、荒野は私たちを謙遜にします。荒野を通ることによって、神様が私たちをどのように導かれるか、どのように私たちをへりくだらせるかを経験することができます。私たちの問題は、傲慢であることです。傲慢な人は決して神の恵みを受けることができません。傲慢はサタンの特徴です。それは、神のようになろうとする態度です。しかし、苦難の荒野に出会えば、人は謙遜にならざるをえません。
また、私たちは荒野で雲の柱、火の柱に会い、マナとうずら、水の出る岩の恵みを体験します。ですから荒野は、神ご自身が私たちとともに歩みながら、私たちを神の人として整えていってくださる場所なのです。荒野を通りながら、私たちは傲慢な態度から謙遜な態度へと変えられていきます。
第二に、荒野は神様に出会う所です。苦難に会うとき、私たちは心細くなり、孤独感を感じるようになります。人からも神からも見捨てられたような孤独感です。しかし、神様は苦難のうちにある私たちを決して見捨てられません。ダビデは、死の陰の谷で神様がともにおられたと告白しています。苦難を通して、私たちは神様と深く会い、神様をさらに親しく経験することができるのです。死の陰の谷を歩くとき、神の臨在と導きを経験するのです。
荒野の人生が祝福になりうる理由は、そこでは神様だけを見つめて生きなければならないからです。食べたり飲んだりするものが保障されない状況で、拠り頼むのは神様しかいなくなるのです。ヨセフは、エジプトの総理になる前、牢という荒野で訓練され、ダビデは王になる前、13年も荒野で逃亡者として生きなければなりませんでした。しかし、彼らはその苦しみの中で人格的な神様に深く出会ったということを覚えてください。
第三に、荒野は訓練場です。荒野を避けようとしないでください。荒野は偉大な人を作り上げる神様の訓練場だからです。ワシは自分の子を巣に置いたままにしておきません。時が来れば、母ワシは巣を荒らして壊し、子に飛ぶ方法を教えます。生きるためにもがく過程を通して、子は立派なワシへと成長します。もともとあった巣にとどまっていることはできません。神様は、荒野を通して私たちを訓練されます(申 32:10)。新しいことを学ぶことを拒むなら、発展はありません。今ある状況に安住し、妥協してはなりません。私たちの人生は、まだ終わっていません。神様が終わりだと言われる前までは、終わりではないのです。
水は、99度まではじっとしていますが、100度になると沸騰します。そのポイントを“臨界点”と言います。言葉を学ぶ子どもが、ある日突然言葉を話しはじめる瞬間や、自転車に乗る練習をしているうちに勘をつかむ瞬間があります。そのような“臨界点”に達する時まで最善を尽くすことが重要です。荒野は、私たちを訓練し、鍛え、神様に用いられる道具として準備させる場所なのです。荒野は、臨界点を突破することができる機会なのです。
荒野は、確かにだれにとっても苦しくつらいものです。しかし、荒野の道を歩ませられる方が神様であることがわかるなら、荒野は終着点ではないことを信じなければなりません。約束の地に行くために荒野を通らなければならなかったイスラエルの民のように、神様が与えたいと願っておられる祝福を受け取るために、私たちは荒野を通らなければならないのです。荒野は、私たちを謙遜にし、神様に出会わせ、神の人として整えてくれる訓練場です。荒野という人生の宝によって、皆さんが再び始めることができますように!

 

本文は、『リビングライフ STORY 2017年4月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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