角をもたげる高慢がさばきを受ける(2) | |||||
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ところで、ゼカリヤが幻の中に見た角は、詩篇の著者が告白した角と、どう違うのであろうか。21節前半部で神はこのように解釈してくださった。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ」。19節でユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だと言っているので、これらの国々はアッシリヤとエジプト、バビロン、メディヤ-ペルシヤなどの国々と見ることができる。これよりも少し後代と見て、ダニエル書2章と7章に出てくる四つの王国、すなわちバビロン、メディヤ-ペルシヤ、ギリシヤ、ローマと見る人もいる。いずれにせよ、これらの角は、狭い意味では当時の神の民を倒す国々として解釈されるが、広い意味では来るすべての時代に神の民を倒して散らす勢力として解釈できる。
21節後半部の「ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角」で、「角をもたげる」とは、高ぶって力と権勢を乱用したことを意味する。神が高く上げてくださる角ではなく、自らを高くし、悪い目的で力と権勢を乱用したというのである。
詩篇75:4-7 「わたしは、誇る者には、『誇るな。』と言い、悪者には、『角を上げるな。おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな。』と言う。」
高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。 それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。
もし高慢に生きている人がいるなら、神が同じように「愚か者のようにふるまうな」と言われることを覚えよう。高慢に生きることは、愚か者のように生きることである。高慢な愚か者はだれにも直せない。打たれて砕かれる方法しかない。神がその高慢の角を打ち滅ぼされるときは、とても痛い。力と権勢が神にささげられるならば、多くの人々を生かす道具となるが、自分を高くして高慢になり、ほかの人々を苦しめる角になるならば、神は決して看過されず、必ず打ってさばかれる。
イスラエルを散らした諸国の力と権勢は、角をもたげる高慢な力と権勢であった。一時、神は彼らを神の民をさばく道具として用いられた。しかし、そのように用いられるのは、尊く用いられることではない。用いられることにも二種類ある。正しいことや尊いことに用いられることがあり、さばきと怒りの道具として用いられることがある。神は、時に、悪者をさばかれるとき、もっと悪い者たちを用いられた。
ところが、神が彼らを神の民に対するさばきの道具として用いられたとき、彼らは神の目的よりもはるかに激しく神の民を苦しめた。
ゼカリヤ1:15 「しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。」
諸国の民が神の民にさらに大きな苦痛を加えた理由は何であろうか。それは、彼らの高慢のためである。それで、神が彼らの高慢の角を必ず打ち滅ぼすと言われたのである。
旧約の預言者たちは、イスラエルの民に対する預言だけでなく、当時の周辺諸国の高慢を指摘する預言も多くした。エドム人の高慢に対して指摘した、預言者オバデヤの預言が代表的である。
オバデヤ1:2-4 見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。――主の御告げ。――
エドム人が高慢になって、高い所にある岩のほら穴に住み、鷲のように飛び、星の間に巣を作っても、神が必ず彼らを引き降ろされるというのである。神は高慢な者を引き降ろされる方である。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。