高慢を砕くために職人を遣わされる | |||||
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高慢を砕くために職人を遣わされる
第二の幻で、神は、高慢になった力と権勢、つまり角を、四人の職人を遣わして打ち滅ぼすと言われる。なぜ職人が四人なのだろうか。それは角が四つだからである。これは、神にはどんな力と権勢であっても、必ずさばくことがおできになる力があるということを示している。どんな権勢も例外がないのである。神の怒りの対象となった力と権勢は必ず打ち滅ぼされる。
この職人は、どんな角であっても折ることのできる力を持っていた。21節後半部を見ると、それらの角を恐れさせることのできる力がある。世の高慢な権勢がどんなに強く見えても、神が遣わされた職人は、それらの角を打ち滅ぼすことのできる装備があり、力がある。高慢な角をもたげて、あなたを苦しめて倒そうとする悪しき角があるなら、神に祈ろう。
「神さま、職場に角がいくつかありますから、何人かの職人を遣わしてください!」
「神さま、この国を苦しめる角がいくつかありますから、何人かの職人を遣わしてください!」
旧約の歴史は、古代近東の高慢な国々の終わりがどうであったかを見せてくれる。神は、輝かしい文明を誇り、天にまで達していたエジプトの高慢を、アッシリヤ人を通して砕かれた。しかし、アッシリヤは残忍で凶暴な民族として有名で、ほかの国々をさげすんで苦しめた。神は、このアッシリヤの高慢と残忍さをバビロンを通して砕かれた。しかし、バビロンが高慢と暴力によって周辺諸国を征服し、それが極みに達すると、バビロンの高慢をメディヤとペルシヤ人を通して砕かれた。次に強大国に浮上したペルシヤは、軍隊と物資に限りがなく、さまざまな国々を征服したが、当時とても小さい国家であったギリシヤに征服された。神は、ギリシヤの高慢はローマを通して砕かれ、ローマの高慢はゲルマン民族を通して砕かれた。神は高慢な国を砕かれる神である。
一方、神は、イスラエルの民が恐れていた高慢な角を打ち滅ぼす幻を見せてくださることにより、イスラエルの民がこれ以上周辺諸国のせいで神に仕えることができないという言い訳をしてはならず、わたしに集中しなさい」と言われたのである。神は、環境や状況のせいで信仰生活が難しいという言い訳ができないようにされる。
神がそれらすべての高慢な敵の角を打ち滅ぼしてくださると信じる人は、このような告白をする。
Ⅱコリント4:8-10 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
使徒パウロは、四方から高慢な角をもたげる敵を経験した。彼は苦しめられ、見捨てられたかのようであった。しかし、パウロは絶望せず、落胆せず、滅びなかった。それは、神が高慢な敵の角を砕いてくださると信じたからである。
ところが、パウロは続けて、自分はいつでもイエスの死を自分の身に帯びていると言っている。なぜイエスの死をいつも身に帯びていたのだろうか。それはイエスのいのちが自分の死ぬべき身において明らかに示されるためにである。当時のローマの死刑制度の中には、生きている人を殺すときに、死体と一つに縛っておく方法があったそうである。死体の毒気が生きている人に伝わって徐々に死んでいくようにするのである。パウロは、自分がイエスの死体と一つに縛られていることで、イエスの死とともに自分の古い自我が死に、イエスの復活とともに新しいいのちによみがえる体験を日々していたのである。
パウロは、自分に敵対していた周りの高慢な角によって絶望したり落胆したりせず、むしろ自分の中にある高慢の角をさらに恐れた。それで、自分は宝ではなく土の器であり、宝はイエス・キリストであるという謙遜な告白をした。私たちの人生を壊す周りの高慢な角は、神が敵となり、職人を遣わして打ち滅ぼしてくださる。問題は、私たちの中にある高慢の角である。私たちの中にも高慢の角があるなら、私たち自身が神の怒りとさばきの対象となるからである。
神は高慢を激しく憎まれる。高慢は一種の自己崇拝だからである。神は、私たちが自分自身を健全に愛することを願われる。神が私たちを大切に思われるように、私たちが自分を大切に思って愛することを喜ばれる。しかし、自分だけを愛することは憎まれる。健全な自尊心のレベルを超えて自分だけを愛するようになると、高慢になり始める。
箴言6:16-19 主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。
箴言8:13 主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。
神が憎まれる罪の中でまず最初に出てくるものが、高ぶりである。高ぶりを説明するうえで、身体部位のうち目を挙げて説明している。高ぶる心を言ってもよいのに、あえて目を選んだのは、その人の高ぶりは目を通して最もはっきりと現れると考えたからである。高ぶる目は、いつもほかの人々を見下しているではないか。
ダンテの『神曲』を見ると、高慢な者の背には重い石が置かれていて、腰を曲げて下ばかり見るようになっているという表現がある。上を見ることができないのが高慢である。高慢だと、上におられる神を仰ぎ見ることができない。心の中の高慢のことを、“たましいのエイズ”と言う人もいる。エイズに感染すると、免疫機能が弱まって各種の病気の攻撃を受けるように、高慢の角が心の中に入ってくると、あらゆる霊的な病気に露出されて滅びるようになるからである。
ある人は、高慢とは自分だけが楽しむことのできる病気であると言った。しかし、時に、高慢は、自分も知らないうちにかかってしまう病気だというところに問題がある。高慢は、神の前で自分を欺くだけでなく、自分自身も欺く罪悪である。それで、ほかの人の高慢にはすぐ気づいても、自分の高慢には気づかない。したがって、だれかに後ろ指を差すときは、三本の指は自分に向かっているということを忘れてはならない。
高慢は、年齢や知識や財産に関係なく、すべての人がかかる病気である。王のような指導者であれ、平凡な人であれ、霊的指導者であれ、同じようにかかりうる病気である。高慢な人は、いつも周りの人々を苦しめ、共同体を散らす。高慢な人が家庭にいると家族全体が苦痛を受け、高慢な人が共同体にいると共同体全体が苦痛を受け、共同体が散らされる。ほかの人に苦痛を与えて関係を壊し、共同体を乱す高慢の角を、神は必ず砕かれるということを覚えよう。私たちの国をひどく苦しめた高慢な角を神がさばいてくださるよう、祈り求めよう。また同時に、私たちと私たちの家庭、私たちの国が高慢の角をもたげて、神に打ち滅ぼされるさばきの対象とならないよう、へりくだって祈ろう。
歴史に名を残そうとした人々が、歴史から見向きもされずに退けられたのも、みな高慢のためであった。歴史に自分の国を残そうとした国々が歴史から消された理由も、高慢のためであった。高慢の角を打ち滅ぼされる神を恐れ、神に尊く良いことにのみ用いられる人生となることを祈る。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。