ひとみのように守る | |||||
|
ひとみのように守る
私たちの記憶はよく故障してしまうことがある。忘れるべきことは記憶し、記憶すべきことは忘れてしまう。神は「うしろのものを忘れなさい」と言われるが、過去の失敗や過ちに縛られて生きている人々がどんなに多いだろうか。神は、罪を告白するなら「もはやあなたがたの罪と不法とを思い出すことはしない」と言われるが、多くの聖徒は、神がすでにお忘れになった罪の記憶の中にとらわれて生きていく。
その反面、過去に神が施してくださった恵みは思い出さず、簡単に忘れてしまう。私たちが現在の状況に失望し、未来に対して不安になって恐れる理由は、これまで神がどのように守ってくださったかを忘れてしまうからである。きのうまで、神は明らかに私たちを守ってくださり、助けてくださった。そうでなかったならば、私たちはみな、今この場にいることができないはずである。
状況が難しくなるとき、サタンは私たちにこのようにささやく。
「神が本当にあなたを愛しているならば、こんなことは起こらないだろう」
私たちには、人生が順境だと神が自分を守ってくださると考え、人生が逆境だと神が自分を見捨てられたかのような時間も、後になってみると、神が自分のために驚くべき摂理をもって働いておられた時間であったことがわかる。ヤコブが、愛する息子ヨセフが死んだと思って悲しみに暮れていた時、ヨセフはエジプトで民族を救う準備をしていた。夫と二人の息子を失ったナオミが、神が自分を苦しめられたと思っていた時、神はモアブの女である嫁のルツと親戚のボアズを通して、メシヤの先祖ダビデを準備しておられた。ダビデがサウル王に追われ、いのちを脅かされ、荒野で逃げていた時、神はまさにその荒野でダビデをイスラエルの王とするために訓練された。
捕囚から帰還したイスラエルの民は、立て続く困難の中で、はたして神は自分たちを顧みて守ってくださるだろうかと疑ったことであろう。彼らは現在の状況を見て絶望し、未来のことを考えて恐れた。神殿ははたして再建されるのだろうかと疑い、情熱を失ったまま手を休めていた。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。