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健全な教会を建て上げるリーダー
by.CGNTV
hit 328 recomend 45 2022-01-04 14:49:04

健全な教会を建て上げるリーダー

 

パク・テヨン オンヌリ教会牧師

 

 

12月になりました。今月は、この一年を振り返りながら、幼子イエスがこの地に来られたことを感謝し、喜ぶ期間です。神様は、私たちを罪の奴隷の状態から解放し、神の子どもとなる特権を与えてくださいました。そのために与えられた驚くべきプレゼントが、イエス・キリストです。そのことを通して、神様は、私たちに愛を示してくださいました。その愛こそが、私たちにいのちを与えてくれます。

いのちそのものであられるイエス・キリストは、この地に人の姿で来られ、神の御子としてのあり方を私たちのために捨ててくださいました。「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ 2:5~8)。

イエスは、神が私たちを造られた目的にしたがって、信仰が成長するように導いてくださいます。そのために、私たちに教会を与えてくださいました。三位一体の神が、互いに交わりながら共同体を形成し、真の愛と奉仕と喜びを味わっておられるように、私たちもそのような有益を味わうことができます。使徒パウロがテモテに宛てて書いたテモテへの手紙第一を通して、共同体のリーダーの資格と生き方に対して黙想しましょう。

 

教会のリーダーの資格と役割

「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです」(Ⅰテモ 5:17~18)。

ここで私たちは、神が教会に二種類の長老を立てるようにされたことが分かります。一つは指導する長老であり、もう一つは教える長老です。指導する長老は、今日の信徒リーダーであると言えます。教える長老は、今日の牧会者です。共同体のリーダーの資格と基準は、テモテへの手紙第一3章1~7節に詳しく記されています。

「次のことばは真実です。『もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。』ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです」(Ⅰテモ 3:1~7)。

ここでの「監督」も、教会のリーダーという意味で解釈することができます。特にここでは、長老(信徒リーダー)の信仰と人格、生活態度について詳しい基準が示されています。教会のリーダーは、家庭でも自分自身を制して家族を顧み、人々をよくもてなす寛大な心を持ち、柔和な人格を持っている人でなければなりません。

神は、イエス・キリストを通して私たちに具体的な信仰の基準を示してくださいました。私たちの信仰の基準は、イエスが示してくださった愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ぶことです。それはまさに、御霊の実です(ガラ 5:22~23)。教会のリーダーは、自らそのような御霊の実を結ぶよう努めつつ、ほかの信徒たちに信仰の方向と目標を示さなければなりません。そのためには、いつも謙遜に神の導きを求め、人々を教え導かなければなりません。また、信徒たちの弱さと闇を明らかにする役割を果たさなければなりません。そのためには、ただ問題を指摘したり訓戒したりするだけではなく、リーダー本人が神の御前にひれ伏し、自らの弱さを認める必要があります。そうしてこそ、イエスが委ねてくださった人々に、真の赦しと励ましの模範を示すことができるのです。

教会のリーダーには、大きく二つの責任があります。第一に、イエス・キリストの真理を教えることです。それは、愛の実践と、いのちであるイエスだけをあがめる人生につながります。また、イエスの主権と統治を認め、完全なる主の力だけを告白するように導きます。

第二に、信徒たちの霊性を顧みることです。指導するリーダーの立場は、政治的な意味とは全く異なります。人々はふつう、政治的な統率権を持つと、自分の力や存在感を誇ろうとしますが、それはイエスがかしらであることを忘れた態度です。私がイエスよりも高い地位についているのです。聖書において「治める」ということばは、「顧みる」ことを意味します。信徒たちの状態はどうなのか、真理にとどまっているか、イエスにとどまっているか、いのちと望みの主だけに目を向けているかなど、信徒たちの信仰を顧みて、忍耐しながら導くことが、教会のリーダーの役割です。私たちが抱きやすい誤解は、リーダーを任せられると、自分が教会の決定権を持つようになったと思ってしまうことです。しかし、真のリーダーの権利は、イエスだけを誇り、イエスの教えが実を結ぶように養育し、交わり、訓練するために与えられているということを忘れてはなりません。

 

リーダーに対する訴え

「長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう」(Ⅰテモ 5:19~20)。

教会のリーダーに対する訴えや批判は、確かな事実確認と、3人以上の客観的な判断に基づいて行われなければならないと言われています。この箇所の中心メッセージは、リーダーも弱い存在であり、その弱さは自分のうちにも潜在していることを自覚しなさいということです。個人的な判断や一時的な感情によって、リーダーを訴えてはなりません。

聖書が私たちに示している対処と訓戒の基準は、「自分の目には梁がある」(マタ 7:3~5)という認識から出発しなければなりません。人に投じた批判の矛先は、いつも自分に向かっているということを知らなければならないのです。いつも謙遜に、柔和な心で人に接し、すべての判断とさばきは主に委ねるべきです。私たちの信仰の目標を神のような完全な姿になることに置くなら、人の弱さを見るたびに批判とさばきの思いが湧き出て、信仰の本質を忘れてしまいます。私たちの信仰の根拠は、十字架です。私たち自身が、とうてい赦されないような罪人の立場から解放された者であることを忘れないようにしましょう。罪に定められない状態にしていただいた私たちが、どうしてほかの人を赦せないことがあるでしょうか。私たちは、人をさばく資格のない者たちです。イエス・キリストの十字架によって赦された恵みを覚えるとき、天の御国を得た寛大な心で人を赦すことができます。そのようにして、私たちは全き信仰に至ることができるのです。

 

愛する皆さん。教会のかしらはイエス・キリストです。その方が願われる共同体を築き上げるために、教会のリーダーとして、また器官として、それぞれの役割を果たしていきましょう。私たちを神の子どもとして回復させるために、この地に幼子として来てくださったイエス・キリストへの感謝があふれるクリスマスになりますように祈ります。

 

 

パク・テヨン

韓国・合同神学大学院大学校牧会学修士号。

米国・Trinity Evangelical Seminary牧会学博士号。

韓国・オンヌリ教会養育本部長。

韓国・EZER宣教会 理事。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2021年12月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。

 

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