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新しい祝福~何が祝福なのか~
by.CGNTV
hit 169 recomend 36 2022-01-18 13:07:13

新しい祝福~何が祝福なのか~

 

チョ・ジョンミン ベーシック教会 牧師

 

 

今日、クリスチャンは説教の洪水状態にあります。聖日礼拝の中で伝えられるみことばは、どれほどたくさんあるか分かりません。ところが、そのみことば通りに生きている人たちの姿がはっきり見えてきません。主のことばを伝える人は数え切れないほど多く、主のことばを聞く人も数え切れないほど多いのに、なぜ世は変わらないのでしょうか。どちらもそのみことば通りに生きていないからです。どちらの責任が大きいですか。言うまでもなく、みことばを伝える説教者の責任のほうが大きいです。ですから、私たちは、みことば通りに生きられない牧師の説教ではなく、みことば通りに生きられたイエス様の説教を直接聞かなければなりません。イエス様のみことばを最初に聞かなければなりません。

イエス様の最初の説教は、祝福に関する話、つまり八福の教えです。八福の教えは、私たちが世で祝福されるための8つのノウハウではありません。天の祝福が臨む人柄や性格に関する話であり、神様が示される生き方に関する話です。

 

貧しい心に臨む神の国

イスラエルの民は、アブラハムの直系の子孫としての自負心を持って生きていました。先祖のアブラハムが祝福の基とされたので、イスラエルの民はいつも神様の祝福に関心を持っていました。しかし、彼らが夢見てきた祝福は、富や成功、健康のことだけでした。カナンの地に入って彼らが堕落したのは、この誤った祝福の基準のためでした。

イエス様の最初の説教は、まずこの基準を正すことを目的としていました。神の国の祝福は、あなたがたが追い求めている祝福とは全く別のものだというのです。ですからイエス様の約束は新しい約束です。イエス様の弟子たちは新しい約束の民であり、その新しい名が教会です。では、教会に与えてくださった新しい祝福の基準を見ていきましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタ 5:3~6)。

心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者は幸いだと言われました。この世では、彼らは幸いな人ではありません。このような祝福をくれると言われても、受け取ろうとする人はいないでしょう。しかし、神の国の祝福は、このような心や人格を持った人に臨みます。この祝福は、神様との関係から始まる祝福です。そして、それは別々に与えられるものではありません。

心の貧しい人とは、神様をいつも渇望している人です。神様しか拠り頼むもののない人です。神様を渇望すればするほど、心は貧しくなります。そのような心に神の国が臨むのです。この世のものを追い求めている人は、神様への渇望を忘れてしまいます。そのような人は悲しみません。ですから、神様の慰めも必要ありません。お金と成功と健康があれば満足します。

心が貧しい人と悲しむ人は、小さなことにも感謝します。神様の御手が触れるだけでも感謝し、涙がこぼれます。神様に飢え渇いている人は、神様がおられることを知ること自体が祝福です。彼らの人格は柔和です。

教会は、心が貧しく、いつも神様を渇望する心がなければなりません。また、悲しむ心がなければなりません。教会は、兄弟姉妹たちや隣人、この世の苦しみに対して悲しむ心がなければなりません。そして、教会は柔和でなければなりません。鋭い目つきで細かいことを指摘するのではなく、柔らかいまなざしで人の弱さを覆い隠してあげなければなりません。

アフリカのある部族は、だれかの過ちが明らかになったとき、その人を中央に立たせて過ちを指摘するのではなく、その人が今までしてきた良いことを順番にほめてあげるのだそうです。そうすることによって、彼が二度と同じ過ちを犯さないようにするのです。これが、心が貧しく、悲しむ心を持ち、柔和で、義に飢え渇く人の方法です。そしてそれは、神様との親密な関係から始まる方法です。私たちのために心を痛め、私たちの罪を悲しみ、私たちの繰り返される罪も柔和な心で忍耐し、私たちをあきらめない神様の愛の心から始まるのです。そのような心を持っている人が幸いなのです。

 

神の国の民として生きるということ

では、私たちは互いに対してどのような姿を示すべきでしょうか。

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタ 5:7~10)。

神様との関係の中で神様のご性質が私たちのうちに生じると、隣人に対してあわれみ深くなります。あわれみ深い人は心がきよくなり、そのような心に神様がとどまられます。そのような人が平和を作ります。どこに行っても争いを引き起こす人ではなく、争いを鎮める人です。そのような人が神様の息子や娘なのです。

イエス様の目的は神の国です。神の国の回復のために来られました。では、神の国とは、どのようなところでしょうか。家庭のようなところです。心が貧しく、愛しても愛し足りない人々がいるところです。いつも神様を渇望する貧しい心があり、家族のだれかが傷つけば、みなが悲しみ、ともに祈るところです。

しかし、神の国は、家庭以上のところです。さらに大きな共同体であり、愛があふれているところです。あわれみ深さや心のきよさ、義に飢え渇く心のために迫害されるところです。しかし、そこにイエス様の慰めも満ちあふれるのです。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです」(マタ 5:11~12)。

イエス様のために損をしたり、ののしられたりしたことがありますか。イエス様は、そのような人は喜びなさいと言われました。なかなか同意しがたく、理解もできないことです。しかし、一つの約束が私たちを慰めてくれます。イエス様が、そのような人は大きな報いがあると言われたことです。なぜ聖書を読むのですか。それを確認するためです。なぜ信じますか。確認しても、簡単に同意できないからです。なぜ祈りますか。この同意を聖霊が保証してくださるからです。なぜ礼拝しますか。苦しくても、神様がともにいてくださるからです。

 

チョ・ジョンミン(曹正敏)

韓国MBCでニュースキャスターを務めた後、53歳からボストンで神学を学び、57歳で牧師となる。2013年、ベーシック教会を開拓。著書には『なぜイエスなのか?』『なぜ救いなのか?』などがある。

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