苦しみの真中に十字架が立つ | |||||
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苦しみの真中に十字架が立つ
大川従道 大和カルバリーチャペル 主任牧師
「苦しみにあったことは
私にとって幸せでした。
それにより
私はあなたのおきてを学びました」
(詩 119:71)。
私はこの1月で80歳になりました。神学校を卒業して59年であり、受洗してからは67年になります。私の両親は牧師でした。苦労のド真中を歩き抜いた人たちです。まさに「善かつ忠なる僕(良い忠実なしもべ)」でした。苦悩の真中を通りながら、賛美や祈りにあふれていました。終戦後の極貧生活の毎日であっても輝いていました。
「闇の中に住んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る」(マタ 4:16)。
あの戦後の貧困と迫害の苦しみの中で、私の両親は、なぜ笑顔で生きられたのでしょうか。開拓伝道という闘いの中で、どのようにして6人の子どもたちを育てることができたのでしょうか。
「その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える」(詩 1:3)。
「主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません」(詩 23:1)
あの貧しさの中で、負け惜しみにも感謝する生活など、できるはずもないのに、毎日が使徒の働きの時代の“wonders and miracles”(驚きと奇跡)の連続でした。もう一度あの時代に戻ってみるかと聞かれたら、「遠慮したい」というのが本音です。しかし、今回、あの生活の中でしか味わえなかったことを、ハッキリと整理してお伝えしたいと思います。
今、私がお仕えしている教会は、51年間も牧会しておりますが、これまで死にたくなるほど苦しかったことが何度もあります。戦後の貧しさもイヤでしたが、牧会等の苦しみも遠慮したいと思ってしまいます。
しかしながら、苦の中の恵みを証ししますなら、水がぶどう酒に変わるような奇跡は、まさに心臓が止まるのではないかと思えるような苦しみの中でしか味わえないことであったということです。すなわち、あの苦しみがなければ、あのレベルの恵みの味わいはなかったと、ハッキリと言うことができるのです。
「十字架なくして王冠はなし」(no cross, no crown)、「雨なくして虹はなし」(no rain, no rainbow)。これらは、人生における教訓レベルのことばではありません。完全に行き詰まり、もはやお手あげという状況の中で自我を十字架につけて殺し、聖霊様の油注ぎを受け、繰り返し繰り返し与えられる油注ぎの豊かさを経験する、まさに「私の杯はあふれています!」という至福の霊界の恩寵を物語っているのです。そのような中でこそ「苦難は人を育てる」、さらに言えば「苦を通してのみ人は育てられる」ことを実感することができます。この世界の分からない人は、あの世界は分かりません。
これらは、イエス・キリスト様が、「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザ 53:11、欽定訳聖書では“He shall see of the travail”)という悟りにつながるのではないでしょうか。
現代の日本宣教は、まさに陣痛、産みの苦しみの最中と言えます。
それにしても、漢字の「苦」は、カルバリーの丘の上で、イバラの冠をかぶられたイエス・キリスト様の十字架を模しているように見えます。これは、今回の執筆の中での大発見でありました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ 2:19~20)。
大川従道
1942年生まれ。東京聖書学院、青山学院大学神学科卒。深川ホーリネス教会、サンフランシスコ教会、座間キリスト教会での牧会を経て、現在、大和カルバリーチャペル主任牧師。ICA理事長、トーチ・トリニティ神学大学院にて名誉博士号を受ける。著書には『バカの壁を超えるもの』『生き方下手でも大丈夫』など多数。
本文は、『リビングライフ STORY 2022年3月』(Duranno書院)より、抜粋したものです。