神がエルサレムの栄光となられる | |||||
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神がエルサレムの栄光となられる
神が、外では火の城壁となり、内ではエルサレムの栄光となると言われる。旧約時代、神の民にとって最も恐ろしいことは、神の栄光が去ることであった。神の栄光が去るとは、見捨てられたことを意味する。のろわれたという意味である。私たちが罪の中にいるとき、神の栄光が去っていく。
ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
罪とは神の栄光が去った状態であるが、神の民が悔い改めて立ち返るとき、神の栄光が再び戻って来る。エゼキエルは、回復されたイスラエルの神殿に神の栄光が再び回復されることを預言した。
エゼキエル43:2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。
主の神殿であり、霊的エルサレムである教会は、神が栄光とならなければならない。神の共同体の中で神が栄光とならず、ほかのだれかが栄光となってはならない。どんな理念も栄光となってはならない。人が栄光となり、理念が栄光となる共同体は、必ず崩れて散らばる。
神は、外では火の城壁となって守ってくださり、内では栄光となってただひとりあがめられる。神が私たちの中で栄光となられることが、回復であり、まことの再興である。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。