ご自分のひとみのように守ってくださる | |||||
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ご自分のひとみのように守ってくださる
ゼカリヤ2:6-9 さあ、さあ。北の国から逃げよ。――主の御告げ。――天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。――主の御告げ。―― さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。 主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。 見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。
イスラエルの民の中には、クロスの勅令で故国に帰ることができるにもかかわらず、エルサレムに帰らなかった人々が多かった。神は彼らに言われる。
「さあ、さあ。北の国から逃げよ」
「さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ」
神は、まだバビロンの町に住んでいるシオンの民に、ただ「帰れ」と言われたのではない。「逃げて来い」と言われた。「さあ、さあ」という表現は、ヘブル語聖書の原文ではとても危険な状況を告げる“ホイ“という感嘆詞が二度も使用されている。“ホイホイ”という感嘆詞は、英語では“Hey Hey”と翻訳されている。とても切迫した状況なので、一日も早く逃げて来なければならないというのである。
神がバビロンから逃げようと急かして言われる理由が二つある。一つの理由は、今はバビロンが安全な所のようでも、これから近づくわざわいが待っている所だからである。間もなく沈没する船にいる人々に向かって「早く離れろ」「早く逃げろ」と叫ぶのは当然のことである。彼らがエルサレムに帰らなかったのは、バビロンほど安全な地はないという現実的な理由からであった。エルサレムは、現実的な目で見ると、安全な地ではなかった。バビロンのほうが安全な地であった。たとえ異邦の地であっても、バビロンにうまく定着して、安定した暮らしをしているのに、あえて故郷に苦労して帰る必要を感じなかったのである。やがて間もなく、ペルシヤの征服軍がバビロンを陥落させ、ユダヤ人もバビロン人もさして違いのない日が来るが、未来を全く予測できない人々は、バビロンの豊かさに浸って、バビロンが最も安全な所であると確信していた。
私たち人間の目には安全な所でも、神の目には危険な所があり、人間の目には危険な所でも、神の目には安全な所がある。バビロンの華やかさと豊かさに浸って安全だと信じている者たちに、神は「早く逃げろ。早くバビロンから抜け出せ」と叫ばれる。
あなたはどんなバビロンに縛られているだろうか。自分の考えでは最も安全だと思っても、神の前では最も危険なバビロンは何だろうか。早く逃げ、抜け出すべきバビロンにとどまってはいないだろうか。
もう一つの理由は、神が約束の地で徹底して守ると約束してくださるからである。八節後半部で、神は「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と言われた。ひとみは、人の体で最も敏感で、本能的にまばたきで保護する。体で唯一、単独の保護膜がある器官である。ほんの小さなほこりが入っただけでも痛みを感じ、涙が出てほこりを洗い流す。
神はご自分の民を「わたしのひとみ」のように守ると言われる。この表現はモーセが最初に使用したものである。
申命記32:10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
モーセが民の前で歌を通してあかしする中で出てきたこの告白は、モーセが直接体験したことである。ご自分の民が荒野を通る時に示してくださった神の恵みは、ご自分のひとみのように民を守られたことだったというのである。
ダビデも、モーセの告白を知っていたのか、荒野で逃げ回る時、このような表現で神に祈った。
詩篇17:7-9あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。 私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。
私たちは主のひとみである。この単語を用いて、神の守りを求めて祈ろう。
「私を主のひとみのように守ってください」
「わたしの子どもたちを主のひとみのように守ってください」
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。