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ESSAY
きよい服を着る
by.CGNTV
hit 503 recomend 145 2017-08-10 02:20:13

きよい服を着る

 

 イスラエルの歴史上、捕囚からの帰還時代があったことは、神が失敗者たちにいつでも新しい始まりを期待されていることを教えてくれる。神は、罪によってさばかれた民であっても、そのさばきの中に捨ておかず、再び救い、回復してくださる方である。だからこそ、神の中ではいつでも新しい始まりが可能である。私たちが生きているかぎり、そして私たちが神に帰るかぎり、私たちはいつでも新しく始めることができるのである。

 ゼカリヤに見せてくださったさまざまな幻は、回復のビジョンである。神は、八つの幻を通して、神ご自身がエルサレムに再び帰って来てくださり、再び栄えさせ、周辺の高慢な国々の角を打ち滅ぼし、火の城壁となり、ひとみのように守るという励ましのことばを与えてくださった。このような回復と励ましのことばを聞くとき、私たちは心の中で「アーメン!アーメン!」と言いながら、信仰がわき上がらなければならない。「その約束が私に果たされる」という確信が生じなければならない。ところが残念なことに、信仰がわき上がらず、疑いがわき上がることが多い。そのみことばが自分に確信として迫ってこず、あまりにも遠い約束のように感じられるからである。

 その理由は二つある。一つは、自分が今、罪の中にいるからである。神のことばと御心に反した人生を生きているとき、神の約束は自分にとって生きたみことば、力のあるみことばとして迫ってこない。自分の中の罪が、神と自分の関係をさえぎっているからである。

 もう一つは、自分が過去に犯した罪に対する罪責感にとらわれているからである。過去に自分が犯した罪に対する記憶と、その記憶がもたらす罪責感に抑えつけられているとき、神の励ましが心に届かない。そのみことばは自分に当てはまらないと思って受け入れようとしない。罪責感はいつも私たちを落胆させる。

 ゼカリヤとイスラエルの民にも、同じような問題があった。三つの幻を通して神の励ましと回復の約束を受けたが、彼らの心には疑いや不安があった。それは、彼らの罪と罪責感のためであった。まことの回復は、霊の回復があってこそ可能となり、聖なる良心の回復があってこそ可能となる。どんなに周辺の国々が滅亡し、神殿が再建され、物質的に繁栄する回復が与えられたとしても、神の前で罪と罪責感から解放され、聖なる良心が回復されなければ、まことの回復は実現しえない。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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