神が着せてくださる礼服を着て | |||||
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神が着せてくださる礼服を着て
神の主権的な選択は、盲目的なものではなく、はっきりとした目的を持っている。それゆえ、その目的を果たすまで、神の選択は取り消されない。それは、神の子どもとすることであり、神の国の民とすることであり、彼らを通してすべての国々の民を神のもとに帰って来させることである。この目的のために、神は彼らを帰って来させ、彼らを守り、サタンの訴えを妨げてくださったのである。
神がサタンの訴えを棄却された第三の理由は、神が選び、救われた人々をきよく回復させるためである。もし神がサタンの訴えを阻むだけで終わったならば、神は義なる方ではない。それはまるで、子どもに何らかの問題があるのに、子どもの問題は全く見ることができず、子どもを非難する人々に問題があると思う親と変わらないからである。正しい親は、子どもに対する非難と攻撃を阻むだけでなく、その子が持っている問題に対して何らかの処置を取る。イスラエルの民いん対するサタンの訴えを阻まれた神は、彼らの罪と咎に対し、驚くことに愛と恵みによる処置を取られた。
四節で、神はサタンの訴えの根拠となっていた問題を解決してくださる。
ゼカリヤ3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」
この節は旧約聖書の中で最も麗しい場面である。神が、よごれた服を着ていてサタンに訴えられたヨシュアの危機をどのように解決してくださったかを見てみよう。ヨシュアが着ていたよごれた服を脱がせ、きよい服、神の前に立つのにふさわしい服を着せることで、サタンの訴えを無力化してくださった。選ばれた民を火から取り出すだけでなく、火に入れられた理由を取り除いてくださった。それは根本的な解決、完全な解決である。もはやサタンが訴える理由がなくなった。これこそが、私たちの神がキリストにあってなされる選択の恵みであり、救いの恵みであり、回復の恵みである。
神がキリストの十字架にあって私たちに施してくださった恵みは、目をつぶってくださる赦しではない。問題をそのままにしておいて知らないふりをする盲目な恵みではない。私たちの罪の問題を完全に解決してくださり、サタンに二度と訴えられないよう、サタンが訴える根拠を取り除いてくださる、根本的な恵みであり、高価な恵みなのである。
この麗しい光景を見たゼカリヤは、その幻の中に割り込んで、ヨシュアの頭にきよい冠をかぶらせなければならないと言った。すると、御使いがヨシュアの頭にきよい冠をかぶらせた。頭にきよい冠をかぶることで、ヨシュアは神の御前にふさわしい資格を備えるようになったのである。
人間の義はみな、よごれた服と同じである。さらには、道徳的に正しい行動も、よごれた服と同じである。
イザヤ64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
赤ちゃんは自分で服を着替えることができない。よごれた服を親が放置するなら、そのまま着るしかない。神の前で、私たちは赤ちゃんのように、よごれた服を自ら脱ぐことができない。人間のどんな正しい行いも、神にはよごれた服にすぎないので、私たちの義を脱いで、神が着せてくださる義の服を着なければならない。
聖書で最初に堕落した人間と最後に回復される人間はみな、服と関連がある。創世記3章で、アダムとエバが罪を犯し、神の前で恐れて自らいちじくの葉で衣(腰のおおい)を作って着たが、神は彼らが作った衣を脱がせ、皮の衣を作って着せてくださった。単に皮の衣が丈夫だから長く着られるように与えてくださったわけではない。皮の衣は、あるいのちが死ななければ生じないものである。堕落した人間は、罪に対する代価を払ういのちの贖いがなければ、神の前に立つことができないということを啓示されたのである。
ヨハネの黙示録では、終わりの日、新しい天と新しい地に入る神の民のことを、白い衣を着た大群衆と表現している。
黙示録7:9-10 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
黙示録7:13-14 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
新しい天と新しい地の民は、子羊の血で衣を洗って白くした人々である。神がヨシュアにきよい服を着せてくださったことは、神の前にきよさを回復させてくださったことを意味する。
私たちは、神が着せてくださるキリスト・イエスの衣、子羊の血で洗って白くなった衣を着なければ、神の前に出ることができない存在である。私たちがイエスを信じるということは、私たちの代わりに血を流して死なれたイエスが私たちのすべての罪を追われたので、私たちのすべての罪は処理され、イエスの義が私たちに着せられたということを信じることである。マルティン・ルターはこれを指して「偉大なる交換(The Great Exchange)」と言った。
あなたは、この罪と義との「偉大なる交換」を経験したであろうか。これをまだ経験していないならば、絶えずサタンに訴えられ、落胆し、罪責感に陥り、新しい始まりを経験できないであろう。
礼拝は、神が着せてくださる義の服を着てこそ、ささげることができる。義という漢字の形は不思議である。羊が我を覆っているからである。子羊の血で贖ってくださった恵みにより、私たちのよごれた服がきれいに洗われることを願う。神が私たちのよごれた服を脱がせて着せてくださる礼服を着て、神の御前に出て行くようになることを願う。
神の選びにより値なく義とされたということは、いい加減に生きてもよいという意味ではない。むしろ、これからは神の律法を守ることができる者となったという意味である。
ヨシュアのけがれた服を脱がせてきよい服を着せ、きよく回復してくださった後に、神はヨシュアに命令を与えられた。
ゼカリヤ3:7 「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。
信仰によって義とされた者たちには従順の義務が伴う。義とされるためではなく、キリストの服を着た者にふさわしく生きるために従順でなければならない。大祭司ヨシュアとその民が神の祭司の国として用いられるためには、従順でなければならないのである。神に従う者に、神はご自分の家を治め、ご自分の庭を顧みて仕えることのできる機会と権威を与えてくださる。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。