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ESSAY
回復を遂げよ
by.CGNTV
hit 272 recomend 152 2017-10-11 00:33:12

回復を遂げよ

 

 神は、幻に続いて、このような回復がどのように可能になるかを説明される。それはまさに、後に来られるメシヤ、イエス・キリストを通して可能になるということである。神は、当時の大祭司ヨシュアに対することばからはるか先に進んで、まことの大祭司であるイエス・キリストを紹介される。

 八節でヨシュアの大祭司職は後に起こることの「しるし」であると言われたが、だとしたら、後に起こることとは何であろうか。まことの大祭司として来られ、神と人間との関係を回復してくださるイエス・キリストの来臨を意味する。 

 八節から十節は、後に来られるメシヤを三つの名称で説明している。

 一つめは、若枝である。

 

 ゼカリヤ3:8 「聞け。聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。」

 

 若枝(または若芽)はイエスの別名である。私どもの教会では、スモールグループを“荀(訳者注:韓国語で若芽を意味する)の集まり”と呼んでいるが、それはイエスの集まりという意味である。イエスが主人となり、イエスに似ていくスモールグループという意味である。旧約でメシヤの来臨を預言する際、“主の若枝”“エッサイの根株から生えた新芽と若枝”“正しい若枝”などと表現している。

 

 イザヤ53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 

 若枝は、とても小さく弱々しい状態から始まって、後に大きな木に成長する。イエスも、若枝のように弱々しい幼子として世に来て、いのちの始まりとなり、神の国の始まりとなられた。

 二つめは、しもべである。

 

 ゼカリヤ3:8 わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。

 

 旧約に出てくるメシヤの預言で「しもべ」はキーワードである。しかたなく従う卑屈なしもべではなく、喜んで従うしもべである。神の御子であるイエスが自発的にしもべとなられた。父の御心に完全に従い、死にまで従われた。

 

 ピリピ2:6-8 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 

 三つめは、石である。

 

 ゼカリヤ3:9 見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。――万軍の主の御告げ。――わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く。

 

 後に来られるイエスは、七つの目がある石として預言されている。七つの目は、すべてのことをご存じで、すべてのことができる全知全能の方であることを意味する。さらには、全地の人々が神の臨在を体験するよう導かれる聖霊の臨在に対する暗示でもある。

 石の上に刻まれた文章は驚くべきものである。「わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く」という内容である。この地に来られたメシヤが、全世界の罪を一日のうちに取り除くのである。このみことばは十字架の出来事を預言している。石にこのようなメッセージが刻まれたことは、これが取り消されず、必ず成就されることを意味する。

 

 ヘブル10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 

 当時、大祭司は、年ごとに数多くのいけにえをささげて、民のために罪の赦しを得ていたが、これをくり返さなければならなかった。しかし、世の罪を負った神の子羊であるキリストは、苦難を受けて死なれたまさにその日に、年ごとにささげられていた贖罪のいけにえに代わって、ただ一度ご自分をささげられたことにより、完全に贖罪を成し遂げた。

 イエスは、木の始まりである若枝であるだけでなく、建物の始まりである礎の石でもあられる。イエスは、信じない者にはつまずきの石となって捨てられたが、信じる者には家を建てる者にとって尊い礎の石となられた。

 

 Ⅰペテロ2:4-5 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 

 イエスは生ける石(Living Stone)である。キリストのうちにある者は、生ける石であるイエスのように、生ける石として霊の家に築き上げられるのである。キリストが若枝となり、キリストがしもべとなり、キリストが生ける石となられたことで、キリストのうちにある神の民に約束された豊かな人生があるのである。

 

 ゼカリヤ3:10 その日には、――万軍の主の御告げ。――あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。」

 

 ぶどうの木といちじくの木の下に招き合うとは、豊かさと平和を意味する。ただの物質的な豊かさではなく、心の豊かさと平安、神の国の義と平和と喜びが満ちた豊かさである。このような豊かな人生は、キリストの十字架の前に出て、この地上のすべての不義を一日のうちに取り除かれたキリストの恵みを受け、着ていたよごれた服を脱ぎ、神が着せてくださる礼服、義の服を着た聖徒たちの心の中に臨む。このような豊かな人生は、キリストのように生ける石となり、生ける神の家として築き上げられていくキリストの教会という共同体の中に臨む。そして、ついには終わりの日に、栄光に輝く主の再臨によって成し遂げられる、永遠の天の御国の安息の中に臨むであろう。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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