わたしが成し遂げる | |||||
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わたしが成し遂げる
社会では、あることを効果的にするためには、自分に何がよくできるかを分析し、自分の能力に応じて働かなければならないと教える。そのとおりである。ところが、神がなさることを見ると、そのような基準に合っていない場合がある。あることがよくできると思われる人を通してみわざが成し遂げられるのではなく、そのような能力が全くないと思われるような人を通してみわざが成し遂げられる場合がある。
士師の時代に、ギデオンという人が勇猛な軍隊の隊長として用いられるであろうと予想した人はだれもいなかった。当時のギデオンは、敵であるミデヤン人を恐れ、ぶどうを搾る大きな酒ぶねの中で小麦を打つような“臆病者”だった。ところが、神は、彼を“勇士“と呼び、二百人の兵士で十二万人に勝利する指導者として用いられた。預言者アモスは、羊飼いで、果樹園で移住労働者として働いていた人であった。しかし、神からゆだねられた特別な任務を果たし、王の前で真理を伝える預言者として用いられた。使徒ペテロは、荒々しい性格の漁師であった。血の気が多く、ストレートにものを言う、きわめて平凡な人だった。そんな彼が初代教会の指導者として、多くの人々を救う霊的指導者として用いられた。
もし彼らが自分の力だけを頼みにしたなら、彼らを通して神の驚くべきみわざは決して起こらなかったであろう。彼らに、自分の長所と短所を評価したあと、能力に応じてどうするかを決定しなさいと言ったなら、彼らはみな、とうてい手に負えないと言ってあきらめたはずである。そうなれば、神に用いられた人は一人もいなかったであろう。ペテロが使徒となることも、ダビデがイスラエルの王となることもなかったであろう。もちろん、ヨセフがエジプトのとなることも、ネヘミヤが城壁を再建することもなかったであろう。ましてパウロが宣教師となることもなかったであろう。
神がわたしたちの力ではできないことを成し遂げさせてくださる方であることを、信じなければならない。神は、私たちが時にはしたくないことでも、させることがおできになる。
神に用いられる人になるには、あることを決定するとき、二つのことを自らに問い、見極めることができなければならない。
一つは、このことは自分がしたいことなのか、それとも自分がすべきことなのか、という問いである。自分がしたくてもしてはならないことがあり、自分がしたくなくてもすべきことがある。自分がすべきことがしたいことならばよいだろうが、神の働きは自分がしたくなくてもしなければならないこともある。
もう一つは、自分ができることなのかではなく、神がしようとされることなのか、という問いである。自分にできるかどうかだけを考えるようになると、自分の力の範囲に神の働きを制限してしまう過ちを犯すようになる。私たちはたいがい、自分のしたいことをし、自分にできることばかりをするため、神の働きに用いられないのである。
捕囚から帰還したイスラエルの民にとって神殿再建は、いつのまにか彼らができないことになってしまった。できないことであるばかりでなく、したくないことにまでなってしまった。その理由は、自分たちの力でしようとしたからである。彼らは自分たちの力が限界に達したと考えた時に中断し、以後、再び始めようとする心さえなくなってしまった。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。