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ESSAY
神だけがおできになる(2)
by.CGNTV
hit 505 recomend 128 2017-11-20 23:58:31

神だけがおできになる(2)

 

 ヨハネの黙示録1章20節で、七つの金の燭台は七つの教会であると言っている。教会は世に光を照らす燭台である。教会自体が光なのではなく、光を照らす燭台なのである。

 神が捕囚から帰還した民に神殿を再建せよと言われたのは、神殿を再建すること自体が目的なのではない。神の臨在を回復し、世に光を照らす民となるよう促したのである。神の臨在のない神殿は、光を放てない燭台となるしかない。

 二つめは、後に神の民は、油が供給され続けて、明るい光を発することができるようになるということである。燭台が光を照らし続けるには、油が供給され続けなければならない。油は聖霊の臨在を意味する。旧約時代の油は、光を照らす燃料にもなるが、治療をする薬にもなった。力をつける食料品でありながらも、きれいに拭くための道具として用いられた。これは聖霊の役割を最もよく象徴している。

 神は今、神の民が落胆して自暴自棄の状態にあるのは、聖霊の油注ぎを経験できていないためなので、彼らに再び聖霊の油注ぎを与えると約束されたのである。

 三つめは、このような聖霊の油注ぎは、油注がれた神の人を通して与えられるということである。

 ゼカリヤが見た幻に出てくる燭台は、左右にある二本のオリーブの木から油が継続的に供給されている。ここで二本のオリーブの木は何を意味するのだろうか。

 

 ゼカリヤ4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」

 

 この二本の木は、当時の大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルを意味する。神が立てた二人の指導者たちが聖霊の油注ぎを続けて供給され、神の民に伝達する役割をするというのである。人は法と制度を作って世を変えようとするが、神は人を変えて世を変えられる。神のやり方はいつも人である。聖霊の油注ぎを受けた人を通して、神は働かれる。

 聖霊の油注ぎは、才能に応じて与えられるものではなく、心のあり方に応じて与えられる。神は、すぐれた才能を持った多くの人々に目を留めず、神の前にきよい心で心を尽くすひとりの人に目を留め、油を注いでくださる。

 

Ⅱ歴代誌16:9 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

 

 神は自分の才能に頼る人を用いられない。神が求められるのは、私たちの才能ではなく、従順である。イエスが言われたみことばの中に「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタイ19:24)ということばがある。豊かさに満足するなら、神から簡単に遠ざかってしまうこともあるという警告のことばである。このことばは、生まれもった才能の多い人にも同様に適用される。らくだが針の穴を通るほうが、才能の多い人が神の国のために用いられることよりもやさしい。なぜならば、才能の多い人は、聖霊の力よりも自分の力に頼るからである。私たちは生まれもった才能と聖霊の賜物を混同してはならない。聖霊の賜物は、生まれもった才能を通して現れることもあるが、根本的には異なる。霊的賜物を発見するセミナーやチェックリストが危険なのは、自分の生まれもった才能と聖霊の賜物を混同してしまいやすいからである。

 神は、私たちの強い領域ではなく、弱い領域で仕えるように導かれることもある。才能がないようでも、神に従えば、驚くべき聖霊の賜物が現れる。世は自分の能力を知って働けと言うが、聖書は自分を否定して働けと言う。自分を否定する者を通して、聖霊の力が働くからである。聖霊の力が働くうえで最も大きな障害物は、自分自身である。自分でいっぱいの人は、神が満たしてくださることができない。説教家ムーディーは「私たちが十字架で自分に対して死ぬなら、聖霊なる神が臨在されるのをこれほど長い間待たなくてもよい」と言った。

 モーセは40歳までエジプトの王子として生きたが、エジプトの王子の力と地位によっては神に用いられることができなかった。80歳まで荒野の羊飼いとして生きながら、モーセは、神が働かれなければ自分は何者でもないことを悟った。神は、モーセが自分を否定する段階に至るまで待たれたのである。

 金の燭台のそばにある二本のオリーブの木は、文字どおりには当時の大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルを意味するが、預言的には後に大祭司職と王職を成就する、メシヤとして来られるイエス・キリストを意味する。聖霊の継続的な油注ぎは、イエス・キリストの中にとどまる人に与えられるという意味である。

 

 ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

 私たちの人生を通して働かれる聖霊の満たしがなくては、私たちのするすべてのことは木から落ちて枯れた枝のようなものである。聖霊は、キリストをあがめる者とともにおられ、キリストに従ってとどまる者に豊かに力を注いでくださる。したがって、自分が世に何を差し出すことができるかを考えるのではなく、聖霊の力が自分を通して働かれるよう自分を差し出すことが重要である。自分が神のためにしようとすることに執着するのではなく、神が自分を通してなさろうとすることに集中することが重要である。自分に与えられていない力に執着するのではなく、すでに聖霊が与えてくださった賜物をもって従順に献身することが重要なのである。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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