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ESSAY
神がなさることはこのように異なる
by.CGNTV
hit 78 recomend 20 2017-12-05 10:06:35

神がなさることはこのように異なる

 

それでは、聖霊の油注ぎを受けて神の力によって働く人を通して、どのようなことが起こるのだろうか。ゼカリヤ書4章はこれに対して三つのことを語っている。

 一つめは、神の力によって働くならば、大いなる山のような障害物がなくなり、平地のように平坦になる。

 

 ゼカリヤ4:7 「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵あれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

 

 イスラエルの前に置かれていた大いなる山のような障害物は何であろうか。政治的には、反対勢力の脅かしと妨害であった。経済的には、神殿を再建するだけの余力がないことだった。霊的には、神殿に満ちるべき神の臨在を切に慕い求める情熱がないことだった。

 このように大いなる山のような障害物があっても、神の力が臨めば、百年かかっても成し遂げられないことでも、たった一年にして成し遂げられる。自分の力で働けば、平地も大いなる山のように難しく、神の力で働けば、大いなる山も平地のように平坦になるのである。自分の力で大いなる山を取り除こうとせず、神の大きな御手で山を取り除いてくださるよう、主に頼って祈り求めよう。

 「神さま!私の力では、この大いなる山は手に負えません。しかし、神さまにとっては平地にも等しい問題にすぎないと信じます。ゼルバベルの前にある大いなる山が平坦となるというこの預言が、私の人生においても成就されますように!」

 二つめは、神の力によって働くなら、その働きが完成するとき、ただ神の恵みだけを賛美するようになる。七節後半で、神は、ゼルバベルが「『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう」と言われた。ここでかしら石は、工事をすべて終え、最後に据える石を意味する。九節では、ゼルバベルの手がこの神殿の礎を据え、その手が神殿を完成すると言われた。ゼルバベルが神殿を完成してかしら石を据えたとき、みなが声を合わせて「恵みあれ。これに恵みあれ」と叫んで賛美するというのである。ゼルバベルの指導力によって完成されたが、ゼルバベルをたたえるのではなく、神の恵みをたたえるのである。

 あることを完成させた後、これらすべては自分の力ではなく神の恵みであったと告白するなら、その人こそ聖霊の力で働く人である。使徒パウロが「神の恵みによって、私は今の私になりました」と告白したように、すべてのことに対して神の恵みをたたえることが聖霊のなさるわざの結果である。

 ヨハネの黙示録には、24人の長老たちが神を拝みながら、自分の冠を御座の前にささげることである。まことの礼拝は、御座におられる主の栄光を見て、自分には主がかぶらせてくださったどんな冠も受け取る資格がないことを悟り、冠を脱いで主の前にささげて拝むことである。それゆえ、この地上で自らの栄光の冠を作ってかぶる人々は、実に愚かで悪しき人々である。初めから終わりまで、私たちの力ではなく、神の恵みで成し遂げたことなので、私たちは決してどんな冠も受け取ってはならず、冠を脱いで恵みを与えてくださった神の前にささげるべきである。

 三つめは、神の力によって働くならば、その働きに対して否定的で無視していた人々ですら、ともに喜ぶようになる。

 

 ゼカリヤ4:10 「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」

 

 神殿再建工事が始まるとき、これを無視してくだらないと言ってさげすんだ二つの部類の人々がいた。一つは、信仰のない現実主義者たちである。イスラエルの現実を見ると、すぐにすべきことは経済の再建であって、神殿の再建ではないという人々である。もう一つは、信仰のある非現実主義者たちである。彼らは、ゼルバベルが据えた神殿の基礎を見て、とてもみすぼらしいと言ってつぶやいた。昔のソロモンの神殿の華やかな姿と比べると、あまりにも見栄えがしないので失望し、さげすんだ。理想ばかりが高くて、現実を冷静に認識できない人々である。

 ところが、この二つの部類の人々が、ゼルバベルの手に統治者を意味する杖だけでなく、下げ振りもあるということは、彼が口だけでなく、率先して工事に携わったことを意味する。聖霊が働かれるなら、初めはつぶやいたりさげすんでいた人々が自発的に携わり、喜びを味わうようになる。神がなさることは、うまくいき、人が傷つかない。事も成就し、人も回復され、共同体も生き返る。

 神がなさるすべてのことは、初めは小さな事のように見える。大したものにも見えない小さな種が大きな実を結ぶように、はたしてこのことが可能だろうかと疑いが生じたとしても、みすぼらしく見えたとしても、神はそのような過程を通して働かれることにより、神の力で成し遂げられたという告白を聞かれる。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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