悪を取り除く | |||||
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悪を取り除く
今の時代に最も汚染された単語があるとしたら、それは愛である。歌はもちろん、ドラマ、映画、文学など、すべての領域で愛があふれている。ところが、洪水が起こると、一面が水であっても、飲むことのできるきれいな水がないように、愛は氾濫していても、まことの愛に出会うことは難しい時代になった。なぜ愛がこのように汚染されてしまったのだろうか。愛から聖さと公義が抜けてしまったからである。
近頃は「神はあなたを愛しておられます」と言っても、人々はあまり驚かない。その神の愛がどんな愛なのかを自分なりに解釈してしまうからである。愛が汚染されるほど、人々は神の愛も誤解してしまう。
聖徒たちに、神のご性質のうち、最も好きなご性質を挙げてみるように言うと、おそらく聖さや公義よりも愛という答えがはるかに多く出るであろう。また、時には聖さや公義の性質を愛の性質よりも劣っていたり従属的で下位的な性質とみなしたりもする。しかし、私たちの目には、神の聖さや広義が神の愛と矛盾し、相反するもののように見えるのは、神の問題ではなく、私たちの問題のために生じる誤解である。神の愛と神の聖さは完全に一つなのである。
愛が聖さよりも重要なら、イエスは十字架につけられる必要がなかった。聖さと愛が同等なので、罪びとを救うと同時に、神の聖さ満足させるためにカルバリの十字架が必要だったのである。イエスは、すべての人を“あるがまま”に受け入れてくださる。しかし“無分別に”受け入れてはくださらない。神の愛は“無条件の”愛であるが、“無分別な”愛ではない。神の赦しは“悪を黙認したり放置する包容”ではなく、“悪を処理してさばいてこそ受け入れられる包容”なのである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。