愛のゆえに悪を治めなければならない | |||||
|
愛のゆえに悪を治めなければならない
神は、悪を処理してさばかれる幻を見せてくださることで、ご自分の民に対する愛を示してくださった。五章には、二つの幻(第六、第七の幻)が立て続けに出てくる。この二つの幻は、互いに異なっていながらもつながりがあり、同じ教訓を伝えているので、ともに見ていくのがよいだろう。
今まで見せてくれた幻はみな、励ましと回復を約束したものだった。ところが、第六、第七の幻は、さばきと警告を約束している。みことばの雰囲気が変わったのである。しかし、神は依然として同じ神である。
エルサレムに帰って来て、エルサレムを再び栄させ、火の城壁となって、ひとみのように守ってくださる神の愛が、神の民の悪をさばくと言っておられる。
神はまことに愛の神である。悪を罰しない愛は愛ではない。神が悪をのろわないなら、神は善なる神ではない。地獄がないなら、天国もないのである。地獄を正しく信じないで天の御国を正しく信じられる人はいない。
最初の五つの幻は、エルサレムに神が臨在されることに焦点が合わせられている。しかし、神がエルサレムに臨在されるならば、エルサレムからは何かが離れなければならない。神が愛により再びエルサレムに来られるならば、神の聖さの前にふさわしくないものはエルサレムから取り除かれなければならない。神が来られるためには、神とともに存在できない罪と悪に対するさばきがまず行われなければならない。
神が私たちのささげる礼拝の中に臨在されることを求めるためには、必ず十字架の前に私たちの罪を下さなければならない。神が愛によっって臨在しようとされても、神の聖さがそれを阻むからである。したがって、十字架を通過しなくては、決して神の前に出ることができず、神の臨在を体験することもできない。
第六の幻は、飛んでいる巻き物の幻である。ゼカリヤが目を上げて見ると、魔法のカーペットのように大きな巻き物が空を飛んでいた。この巻き物の大きさは、長さが20キュビト、幅が10キュビトだったとある。キュビトは成人男子のひじから指先までの長さをいうが、一般的に1キュビトは45センチメートルである。20キュビトは9メートル、10キュビトは4.5メートルになる。相当に大きな巻き物である。この巻き物の大きさと同じ大きさが聖書に出てくるが、それは神殿の玄関である。
Ⅰ列王記6:3 神殿の本堂の前につく玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、幅が神殿の前方に十キュビトであった。
神殿の玄関は、律法が朗読される所であると同時に、裁判が行われる所でもあった。したがって、この幻で巻き物の大きさと神殿の玄関の大きさが同じことは偶然ではない。この巻き物の大きさを通して、この巻き物が神の律法に基づいて世をさばく道具であることを教えているのである。
このような巻き物がのろう道具として出てきたのは、神の律法にのろいの内容があるからである。申命記28章を見ると、主の御声に聞き従うときに受ける祝福と、聞き従わないときに受けるのろいが出てくる。ところが、68節もある中、祝福の約束は14節しかなく、のろいの約束は54節にものぼる。のろいの約束が何倍も多い理由は、それほど私たちが不従順になりやすいからである。
祝福の約束は、読むだけでもわくわくする。「町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。……入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。……かしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない」。ところが、のろいに対する約束は正反対である。「町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。……入るときものろわれ、出て行くときにものろわれる……」。私たちは、祝福の約束を読んでいて、のろいの約束が出てくると、聖書を閉じてしまいたくなる。しかし、最後まで読んでこそ、バランスのとれた信仰生活ができる。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。