愛のゆえに悪を治めなければならない(2) | |||||
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愛のゆえに悪を治めなければならない(2)
ゼカリヤ5:3 すると彼は、私に言った。「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる。」
飛んでいる巻き物は、神が罪を犯した人をのろうために送られたものである。この巻き物は、最近の先端技術である衛星追跡装置よりも正確にターゲットを探し、神ののろいを受けるべき人々に正確に届けられる。普通、巻き物は巻かれていなければならないのに、この巻き物は広げられた状態で空を飛んでいる。空を飛んでいるということは、アドバルーンのようにどこででもその内容を見ることができるということであり、飛んで行っていつでも実行できるという意味でもある。
この飛んでいる巻き物がターゲットとする人は、二つの戒めに反した人々である。盗む人と偽って誓う人である。十戒のうち、第八戒と第三戒である。しかし、ただこの二つの戒めだけを破った人々がターゲットになるという意味ではない。この二つの戒めは、当時のイスラエルの民が最も一般的に犯していた罪を代表している。第八戒と第三戒は、それぞれ石の板に刻まれた五つの戒めの中間にあるものである。盗むことは人間に対する罪、すなわち第六から第十戒までを意味し、偽って誓うことは神に対する罪、すなわち第一戒から第五戒までを意味する。
ここからは、幻のメッセージの主人公が、指導者たちから民全体に移っている。大祭司ヨシュアと政治指導者ゼルバベルを回復させ、励ます幻から、共同体全体が聖い民へと変えられなければならないことを示す幻へと移っているのである。
このようなみことばは、捕囚から帰還した民の霊的状態を示すものでもある。約束の地カナンに帰って来たにもかかわらず、彼らは偶像を礼拝し、十戒を破り続けて生きていた。国を失って捕囚の身となった過去の失敗を忘れ、再び過去に戻っているのである。
特に盗みや偽りの誓いが横行していたことは、それほど生活が困難な社会であったことを物語っている。生活がくるしくなると、盗みや偽りの誓いをする可能性が高くなるからである。しかし、必ずしもそうであるわけではない。生活が苦しくても、神を愛し、聖い人生を生きる聖徒たちもたくさんいるからである。今日、発展途上国を脱することができない多くの国々は、貧困を理由に腐敗を黙認し、公正な社会を追求することができない。しかし、貧困のゆえに悪を緩く治める社会は、ますます貧困になり、貧困のかせから抜け出すことができない。捕囚から帰還した民は、生活が苦しいという理由で律法をおろそかにし、律法を歪曲し、ひいては律法を犯すことをあまりにも簡単に考えていたようである。経済的に苦しくても、神のことばと聖い人生を放棄しない信仰をもつことを願おう。それが回復の道であり、再建の道である。神は神殿を再建するよう促されるが、それと同時に、悪行はさばくと警告される。悪行から離れずに成し遂げる神殿再建には何の意味もないからである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。