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キリストのうちに希望を見る      
by.CGNTV
hit 377 recomend 152 2018-02-27 01:45:59

キリストのうちに希望を見る      

 

日本ホーリネス教団 東京中央教会 牧師 錦織 寛

 

私たちは、なかなか希望を持ちにくい時代を生きています。ある意味、多くの人たちが、青年や子どもたちまでもが、希望を抱くことをあきらめています。昔は子どもたちや若者たちは夢を語るけれども、だんだん大人になってくると、厳しい現実と向き合うようになって、「現実的な」判断をする中で、少しずつ希望を失っていくというパターンがあったかもしれません。しかし、現代は子どもたちまでもが夢を見ること、望みに生きることをやめてしまっています。それは、希望を抱いても裏切られることがあまりにも多いからです。また、望みを持って生きている大人を見ることが難しくなっているためであるかもしれません。傷つかないように初めから希望を抱くことをやめてしまうのです。確かに、何も望むことなく生きていくとしたら、私たちは大きく傷つくことはないかもしれません。けれども、そこからは、たとえ見えていなくても、神に信頼して足を前に出していくというような信仰の世界には踏み出せません。何も望まないで生きるというのは、私たちの神が私たちを造られた、そのご計画からは大分ずれています。神は私たちが希望をもって生きるようにと期待しておられるからです。

私たちの信じる神は、希望の神です。私たちに希望を与え、それを実現してくださる方です。私たちが主にあって抱く希望は、何の根拠もない夢物語や、こうなったらいいなあという漠然とした願いではありません。旧約聖書の預言者ヨエルは、神に従わない人々の姿を見ながらも、神がその霊を注いでくださる日が来る。その日には、「老人たちは夢を見、若者たちは幻を見る」と言いました(ヨエ 2:28、口語訳)。神は私たちに聖霊を注いで私たちに希望を持たせてくださるのです。

そして、私たちに希望を与えてくださるのは、主イエスです。主イエスの生涯も希望を持ちにくいものでした。せっかく父なる神に遣わされてこの世に来たのに、そもそも宗教家たち、聖書のことを熟知しているはずの人たちが、主イエスを拒みます。主イエスに喜んでついて来た人たちも、その中にある動機というと、どうも怪しい。主を愛して従うというよりも、自分の出世のようなことばかり考えているのです。主イエスは十字架について死なれます。私たちの罪を負っての贖いの死です。しかし、人間はどれだけ主イエスのことを理解しているのでしょうか。この福音を託そうとしている弟子たちは大丈夫でしょうか。人間的に言うなら、希望どころではない、ため息ばかりが出てきそうな状況です。しかし、主イエスのうちには希望がありました。主イエスが十字架で死ぬことによって、多くの人たちが救いにあずかるようになる。ユダヤ人だけではなく、世界中から主をあがめる賛美が聞こえるようになる。そして神は、やがて生まれる私たちのことも見ておられたことでしょう。

私たちが希望を持ちにくいというときに、ある意味、一番当てにならないのは自分自身なのかもしれません。主イエスがそのいのちを捨てるほど愛してくださったのに、何度、その期待を裏切ってきたかわかりません。私たちはそんな自分に、いい加減あきれ果て、自分自身のことを見捨てることさえ考えます。もう面倒見切れないのです。しかし、主イエスは、そんな私のことも見捨てられることはありません。ペテロが主イエスを三度知らないと言ったときも、主はペテロが立ち直る姿を見ておられました。主は、その恵みによって生かされて、主に喜びをもって仕えている私たちのことを見ておられます。たとえそのことがまだ起こっていなかったとしても、主イエスは私たちに希望を持ってくださっています。そして主の希望は必ず実現するのです。

私たちの希望を確かにしてくださる方がいます。それが変わることのない神なのです。けれども、その神に信頼することが現実の私たちには難しく思えることがあります。「本当に私は、いつか神の前に喜びをもって立つことができるのだろうか」 自分の現実の姿に向き合い、自分を知れば知るほどそのように思います。そんな私たちを支えてくださるのが、主イエスです。主イエスは私たちのうちに住まわれ、つたない信仰を支えてくださいます。パウロはこれを奥義だと言いました。「……この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」(コロ 1:27、口語訳)。

十字架と復活の主イエスは、私たちが主を信じる者の群れに加わり、主に仕えながら生涯を歩み、やがて喜びのうちに主の御前に立つようになることを望んでおられます。私たちは、主の望みによって生かされています。主イエスは、間違いなく、私たちを栄光にあずからせてくださいます。そして私たちは、この方がうちに住んでくださることによって、望みに生きる者とされるのです。

 

錦織 寛

東京聖書学院、ベテル神学校、タルボット神学校で学び、キリスト教教育の分野で博士号を取得。東京聖書学院長。日本ホーリネス教団 東京中央教会 主任牧師。日本ケズィックコンベンション 事務局長。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2018年2月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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