さばきはそれぞれの家に臨む | |||||
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さばきはそれぞれの家に臨む
飛んでいる巻き物は悪を行うそれぞれの家に入ってさばきを行うと言っている。
ゼカリヤ5:4 「わたしが、それを出て行かせる。—万軍の主の御告げーそれは、盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに立ち滅ぼす。」
神ののろいはそれぞれの家に臨むのである。出エジプトの時、それぞれの家にさばきが臨んだようにである。それぞれの人ではなく、それぞれの家と言われたことは、家族共同体として互いに連帯責任を負うことを意味する。家族の中のひとりの悪が家族全体に深い影響を及ぼすからである。また、家と言われた理由は、悪者たちが隠れ場に隠れていても、その家まで探し出して臨むという意味である。人々の視線を避けて隠れるのには成功するかもしれないが、天を飛んでいるのろいの巻き物は避けることができない。
ところが、神ののろいは、家に入ってしばらくのろってから通りすぎる程度ではなく、真ん中にとどまると言われた。いつまでとどまるのだろうか。その家の梁と石がすべてなくなる時までである。たいがい家が火事になっても、梁は残る。台風で家が倒れ、津波が襲っても、礎石は残る。ところが、神はその家にのろいがとどまり、徹底的に崩すと言われたのである。
この徹底した激しい神ののろいが臨む家とならないことを切に願う。神ののろいの巻き物は避けることができず、隠れることもできず、阻むことも、食い止めることもできないので、この巻き物のターゲットにならない人生を生きることを願う。
ずっと以前、アメリカのある大統領が“悪の枢軸”との戦争を宣布した。ところが“悪の枢軸”はなくなったのだろうか。いや、なくならなかった。アメリカの国防力が弱くて“悪の枢軸”を取り除けなかったのではない。“悪の枢軸”の対象が間違っていたのである。世には多くの悪が動き回っているが、“悪の枢軸”はまさに私たち自身の中にある。
チェスタートン(G.K.Chesterton)というイギリスの有名なクリスチャンの思想家は、タイムズ紙から「世はなぜこのように邪悪なのか」という主題でエッセイを書いてほしいと依頼された。チェスタートンはこの時、歴史上最も短いエッセイを書いたという。要するに「自分が問題なのだ」ということである。
自分の中にある悪の枢軸を取り除かなければ、自分も自分の家族も、飛んでいる巻き物のターゲットになりかねない。脅しているのだろうか。そのとおりである。脅迫しているのだろうか。そのとおりである。殺すための脅しではなく、生かすための脅しである。生かすための脅迫である。愛の脅しであり、愛の脅迫である。この愛をしっかりと受け止めて、回復され、祝福の人生へと進んでいかなければならない。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。