あなたがたは王である祭司 | |||||
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あなたがたは王である祭司
歴史の観点は二つある。
一つの観点は、歴史には目的も方向も、ただ回り回って流れていくと信じるものである。循環論的歴史観または輪廻論的歴史観である。歴史とは果てしなく循環するもので、過去に起こった出来事が現在にも起こり、未来にも起こるだけであるという観点である。したがって、歴史に対するさばきは存在せず、それが存在すべき必要性もない。
もう一つの観点は、歴史には目的と方向があり、すべてを統括する神が、その目的に向かって歴史の進路をコントロールし、栄光に輝く絶頂に至らせるという観点である。これは直線的歴史観である。聖書が私たちに教えてくれる歴史観は、歴史には始まりと終わりがあり、その終わりにはさばきがあるというものである。
どの時代であれ、人を二種類に分けるとしたら、歴史のさばきがあることを信じ、意識して生きていく人と、さばきはないと信じて生きていく人に分けることができる。どちらのほうが多いであろうか。ないと考える人々のほうがはるかに多い。
聖書には数多くの歴史のさばきが出てくる。そのさばきがあるたびに、そのことを信じず、あざ笑い、見下した人々がいる。ノアの洪水の時、人々はノアが箱舟に入る日まで悟れなかった。
マタイ24:38-39 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
めとったりとついだりすることが間違っていると言っているのではない。当時の人々がさばきを意識できず、この世での喜びと楽しみばかりに目を向けて生きていたことを指摘しているのである。
ソドムとゴモラが滅びるとき、アブラハムのおいロトが御使いに示されて家族にさばきについて知らせると、ロトの婿たちは彼の言葉をあざ笑い、冗談のように思った。さばきに対する啓示を冗談のように思う者は、人生を冗談のように生きるようになる。
歴史に対するさばきがあるのは、完全であり絶対者である神が歴史を統括しておられるからである。その神が世の歴史を始め、コントロールし、さばかれる。
ローマ11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
万物を創造された神が万物を治め、さばかれる。歴史(History)は、神の話、つまり“His Story”なのである。
絶対的権力は絶対に腐敗するという言葉がある。意味はわかるが、正確な言葉ではない。人間はだれも絶対的権力者になることができない。絶対的権力者は、ただ神おひとりだけだからである。したがって、絶対的権力は絶対に腐敗しない。
神は正しく全き愛の方なので、決して腐敗したりはしない。人々の握った権力が腐敗するのは、絶対的権力を持っているからではなく、絶対的権力を持っていると錯覚するからである。神は、歴史を通して、自分が絶対的権力を握っていると慢心する人々を必ず倒された。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。