生活を通した信仰 | |||||
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生活を通した信仰
二つめの問題として、神は信仰と生活のかけ離れた二心の宗教的習慣を指摘される。
ゼカリヤ7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。
神は、彼らが断食をきちんと守らなかったと指摘されたのではない。むしろ、日常生活の中で食べたり飲んだりするすべてのことが、神とかかわりのないものであったと指摘された。神は、彼らが70年間、どんなに徹底的に断食を守ってきたかをご覧にならず、断食している時以外の生活でどれだけ神中心に生きてきたかをご覧になった。神にささげられる全き断食が行われたならば、その実はどこに現れるべきであろうか。断食が終わったあと、食べたり飲んだりする日常生活の中で現れなければならない。
6節で、神は、断食の時以外の飲食時の問題へと話題を変えられたが、それでも依然として断食と関連して教えている。彼らは、断食のような宗教的習慣は徹底的に守ったが、世に出ると、神と全くかかわりのない生活をしていたのである。年に数度断食を行うことで神との関係がすべて充足されたと思うことは、宗教的欺瞞である。まことの断食は、断食しない時も(断食をする時にも)、断食する時と同様に、神中心の生活をすることである。
Ⅰコリント10:31 あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。
このみことばは、食べたり飲んだりすることのような、きわめて日常的で平凡な生活の中での神の栄光を現しなさいという意味である。私たちの信仰生活は、教会生活だけにとどまっていてはならず、生活を通した信仰とならなければならない。什一献金も同じ原理である。十分の一を正確にささげれば、什一献金がささげられたことになるのであろうか。残りの十分の九がどのように使用されるかが、十分の一が正確にささげられたかを決定づける。十分の九も神の栄光を現す生活になってこそ、什一献金が正確にささげられたことになる。聖日を守ることも同様である。日曜日の一日だけ礼拝をきちんと守れば良いのではなく、残りの六日も生活が礼拝となるように生きなければならない。
神は、このように教会生活と家庭や職場での生活が異なっている人々の、信仰的二重生活の姿を指摘される。礼拝に出席したこと自体は、決して神との関係を充足させてくれはしない。礼拝が終わって次の礼拝がやって来るまでの生活が、神との関係を示すのである。礼拝は徹底的に守っても、それ以外の生活が神とかかわりなく、自分のために食べたり飲んだりする生活であるならば、信仰的二重生活をしていることになるのである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。