わたしのことばに耳を傾けたことがあるのか | |||||
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わたしのことばに耳を傾けたことがあるのか
三つめの問題として、神は、内なる耳を傾けようともせず、従順でもない、うわべだけの宗教的習慣を叱責される。
ゼカリヤ7:11-13 それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない。」と万軍の主は仰せられる。
神は、断食よりも大切なことがあると言われる。それは神の御声に聞き従うことである。彼らが行っていた断食は、過去の悲劇を覚えて悲しむことだが、悲劇的な出来事を覚えることよりも大切なことは、そのような悲劇がくり返されないようにすることである。神殿が破壊された日を覚えて悲しむ宗教的行為よりも大切なことは、神殿がなぜ破壊されたかを覚え、その原因を取り除くことである。今日も、戦争がなぜ起こったかを振り返らず、ただ戦争記念館を建てて記念とするならば、それには何の意味もない。
イスラエルの民は70年間いつもしてきたように断食をしているうちに、断食が一つの宗教的な儀式となってしまった。断食が神の御声を聞くための場ではなく、それ自体が目的となってしまったのである。神殿が破壊された理由は、彼が神のことばに聞き従うことを拒んだからである。彼らは背を向けて耳をふさいだ。預言者たちに聖霊を注いで語らせても耳を傾けず、心は石のようにかたくなであった。「肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった」という表現は、彼らがどれほど聞くことを拒んだかを生き生きと表現している。だれかが肩をつかもうとするのを強く払いのけ、自分のかたくなな心のままに歩む荒々しい態度を意味する。彼らは、肩を怒らすだけでなく、聞けと叫ぶ声を聞かないようにしようと耳までふさいだ。このように聞かなかった結果、その心は金剛石(ダイヤモンド)のようにかたくなった。あまりにも長い間、神のことばを聞かなかったので、心が金剛石のようにかたくなってしまったのである。
断食よりも大切なことは、心に語られる神の御声に耳を傾けることである。そして、従うことである。内なる耳を傾けることと従順な心がないなら、信仰生活はうわべだけのものになってしまう。神に背を向けないことを願う。耳が常に神に大きく開かれ、神の御声に耳を傾けることを願う。
神が指摘されたのは、今まで習慣のようにしてきたことを続けるべきかどうかの問題ではなく、断食は熱心にしてきたとしても、それ以上に今までしてこなかった最も大切で本質的なことがあり、それをしなければならないというのである。それはみことばに耳を傾け、従うことである。神の御声に耳を傾け、神が断食せよと言われたら行い、やめてもよいと言われたらやめればよいのである。
信仰生活が形式的な宗教的二重生活になり、うわべだけのものになるとき、神との関係はまことの信仰から外れ、宗教的迷信に転落してしまう。その人生は信仰とかかわりがなくなり、さまようようになる。そして、罪を犯すようになる。心がかたくなになって神との関係が断たれたままで生きていくようになる。イスラエルの民がそうであった。共同体全体がいのちのある信仰から離れてさまよっていた。
歴史上、多くの教会が、イスラエルの民のように信仰生活に慣れてしまい、習慣的に礼拝し、奉仕するという形式的な宗教的二重生活となり、うわべだけの信仰のわなに陥って、自由になれなかったのである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。