恵みに応えよ | |||||
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恵みに応えよ
昔の言葉に「恵みは水に記し、恨みは石に刻む」という言葉がある。恨みは生涯忘れないが、受けた恵みは簡単に忘れてしまうという意味である。恵みを簡単に忘れ、正しく報いることができない人間の問題を洞察した言葉である。恵みを求める人々は多いが、受けた恵みを覚えてふさわしく応答する者はとても少ないのである。
イエスにいやされた十人のツァラアトに冒された人のうち、九人がユダヤ人で、一人だけがサマリヤ人であった。みないやされたが、サマリヤ人一人だけが戻って来て、イエスに感謝した。するとイエスが言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか」。私たちははたして、恵みにふさわしく応える一人だろうか。それとも、恵みを忘れた九人のうちの一人だろうか。
受けた恵みが多くて大きいほど、簡単に忘れてしまう。恵みが大きいほど見ることができず、すべて理解できないからである。
目は、暗くても見えないが、とても明るくても見えない。X線が目に見えないのは、とても明るいからである。耳もまた、音がとても小さくても聞こえないが、とても大きくても聞こえない。もし私たちの耳が地球の回る音を聞くなら、私たちは一日たりとも生きられないであろう。同様に、私たちは大きくて驚くべき神の恵みをよく見られない。はたして日の光と雨を与えてくださる神の恵みに心から感謝している人がいるであろうか。土と空気を与えてくださる神の恵みに深く感謝しているであろうか。
恵みを完全に悟れない人は、恵みをむだに受けたり、恵みを利用してさらに罪を犯す。神が恵みによってさばきを遅らせてくださったのに、さばきなどないと思ってさらに罪を犯す。神が恵みによって罪を赦してくださるから、罪を告白すれば赦されると思って罪をやめない。コリント人への手紙第二は、そのような私たちにこう勧めている。
Ⅱコリント6:1 神の恵みをむだに受けないようにしてください。
恵みを悟って見いだした人は、決して恵みを忘れないようにしようとする。そして、どうすればこの恵みに報いることができるかといつも考える。
詩篇103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
では、どうすることが、恵みを覚えて恵みにふさわしく応えることであろうか。罪を離れて、真実に生きることであり、偽りなく正直に生きることである。
イエスは、姦淫の場で捕らえられた女を赦しながら「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)と言われた。 姦淫の女を罪に定めない恵みが注がれると同時に、二度と罪を犯してはならないと言われた。恵みにふさわしい真実な生き方を要求されたのである。真実な生き方は、神が与えられた恵みにふさわしく応答することである。ゼカリヤ書8章で、神はご自分の民に驚くべき大きな恵みを与えられた。そして同時に、その恵みにふさわしい真実さを要求された。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。