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ESSAY
真実と平和と祝福の町イスラエルを見よ
by.CGNTV
hit 38 recomend 7 2018-08-14 05:34:12

真実と平和と祝福の町イスラエルを見よ

 

 ゼカリヤ8:15-17 しかし、このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている。恐れるな。これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ。――」

 

 ゼカリヤ8:11 しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。――万軍の主の御告げ。――

 

 ゼカリヤ8:13 ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」

 

 これらの本文は“今”と“昔”の変化を対比することで、神が施された恵みがどんなに大きいものかを表している(訳者注:ヘブル語聖書原文には「今」という単語が8章11節に一度しか出てこないが、韓国語改訳改訂訳とウリマル訳には13節と15節にも「今」が使用されている)。今、神が思い直して恵みを施すことに御心を定められたというのである。これは神の意志的な決定である。この神の決定は、相手の変化には関係なく、ご自分の心を思い直して決心される意志の結果である。神の恵みは、神の自発的な意志の選択である。このような神の決心は、どこから出てくるのであろうか。それは神の愛から出てくる。

 

 ゼカリヤ8:2 万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」

 

 神の激しい愛と神の決心が一つとなって神の恵みとして表現されている。イスラエルの変化が先ではない。神の愛と決心が先である。恵みとは、まだ変えられていない人であっても、その人が変えられたときに与えてくださる祝福を、まるですでに変えられたかのように約束されることである。神が捕囚から帰還して神殿を再建する民に施すと言われた恵みは何であろうか。ゼカリヤ書8章3節から12節にその恵みの具体的な内容が表示されている。

 第一の恵みは、エルサレムが真実の町となることである。

 

 ゼカリヤ8:3 主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」

 

 かつてエルサレムが滅亡した理由は、そこに「真実」が消えたからである。民は神の真実ではなく、偽りと虚しい言葉に従い、互いに対していつも偽りを言った。さらには、真実の最後のとりでであると言える法廷でさえ、真実に顔を背けて偽った裁判を行った。

 神がエルサレムに恵みを施して回復させようとするビジョンは、ただ神殿をすばらしく再建することではない。神殿再建は、エルサレムの回復において神の臨在の象徴にすぎない。神の究極的なビジョンは、エルサレムが「真実の町」となることである。

 恵みにふさわしい反応は真実に従うことである。神の恵みを受けた者は、真実に従って生きていこうとし、真実を語る人生を生きる。

 

 第二の恵みは、エルサレムが平和な町となることである。

 

 ゼカリヤ8:4-5 万軍の主はこう仰せられる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」

 

 年老いた者が杖をついて歩き、広場で子どもたちが遊ぶ姿は、平和な町の姿である。年老いた者が杖を頼りにゆっくり歩いても何の妨げも受けない町、子どもたちが遊ぶのに安全な町である。

 このみことばで老人と子どもたちが登場するのは、戦争やききんで社会が苦しくなったとき、彼らこそが真っ先に犠牲になる人々だからである。エルサレムが荒廃したとき、老人や子どもたちは広場を歩くことができなかった。ゼカリヤの時代にも、広場に子どもたちがほとんどいなかったようである。老人と子どもたちが何の恐れもなく、安全に広場を歩ける町は、神の恵みによって回復した平和な町である。

 

 ゼカリヤ8:10 その日以前は、人がかせいでも報酬がなく、家畜がかせいでも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。

 

 経済的に非常に苦しい状況で、人々は一生懸命働いても正当な代価を得られなかった。家畜でさえ腹いっぱい食べられず、働かされるばかりであった。敵のためにだれも自由に歩き回れなかったということは、外交的にも不安定だったことを意味する。周辺諸国の脅かしのために、日常生活をまともに営めない状況だった。しかし、いまや平和な町、すなわちシャロームの町となるというのである。

 平和な町になるためには、まず真実の町にならなければならない。真実のない平和は偽りの平和である。平和は必ず真実の中でだけ味わうことができるからである。

 

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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