恵みを受けた者の然るべき生き方(2) | |||||
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恵みを受けた者の然るべき生き方(2)
私たちがこのように神の恵みに真実に応えるとき、神がボーナスとして与えてくださる祝福がある。その一つめの祝福は、断食の日が祝いの日となることである。
ゼカリヤ8:19 万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」
この部分になって、ようやく7章前半部で提起された断食に対する質問に神が答えてくださる。ベテルの人々が習慣的に行ってきた断食の日を守らなければならないのかと尋ねたとき、神はイスラエルの民の霊的状態を指摘された。すなわち、神への心のない形式的な断食が無意味なように、日常生活の中での神への心のない飲食も断食の表裏一体として無意味であり、また内面の従順のないうわべだけの断食も無意味であると指摘したのである。それから、ようやく民の質問に答えられた。その断食の日が悲しみと嘆きの日ではなく、楽しく喜ぶ、うれしい祝いの日となると言われたのである。
これは、断食の日をなくし、その代わりに楽しく喜んで食べたり飲んだりする日になるという意味にもなりうるが、一方では同じように断食をしても、悲しみの断食ではなく喜びの断食、嘆きの断食ではなく楽しみの断食になるという意味にもなりうる。結婚式で花婿と花嫁が食べたり飲んだりする欲求も忘れて喜び楽しむように、神の臨在のゆえに、飲んだり食べたりする欲求さえ忘れて喜びの断食をすることができるのである。
二つめの祝福は、多くの異邦人が押し寄せてきて、神の恵みを求めて祈るようになることである。
ゼカリヤ8:20-23 万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう。』と言う。多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」 万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」
私たちが神の恵みに対して真実な生き方で応えるときに注がれる祝福は、多くの神を信じない人々が押し寄せてくることである。私たちが信じる神のもとに出て、祈るようになるのである。互いに「さあ、行こう」「私も行こう」と言いながら祈りに来るのである。なぜであろうか。万軍の主がともにおられるのを見聞きしたからである。
イザヤ2:2-3 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
エルサレムを攻撃した国々の民が、今までは主のことばを聞くために出て来るようになるというのである。神の民が国々の民のところに行く宣教もあるが、国々の民が神の民のところに来る宣教もある。私たちが訪ねて行く伝道もあるが、人々が私たちのところに訪ねて来る伝道もあるのである。私たちが神の恵みに真実な生き方で応えるなら、私たちとともにおられる神の恵みを見て、多くの人々がその神の恵みを求めて私たちのところに来る。
ゼカリヤ書8章23節では「外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかむ」と言っている。ひとりのユダヤ人とは、ユダヤ人として来られるイエス・キリストである。すそを堅くつかむとは、切に救いを求めるということである。
みことばどおりに、多くの異邦人が恵みとまことに満ちたイエス・キリストのすそを堅くつかんで神の恵みを受けるようになった。恵みとまことに満ちたイエスが、十字架を通して多くの人々を救いの恵みの前に出るように導いたように、私たちが神の恵みの前に、真実な人として、正直で偽りのない生き方で出るとき、神が私たちを通して多くの人々を救われるのである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。