喜べ、王が来られる | |||||
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喜べ、王が来られる
イエスを信じない人に「聖書はどんな書ですか」と問われたら、あなたはどう答えるであろうか。次のように答えることをおすすめしたい。
第一に、聖書は歴史の書である。聖書は、格言集のように、どこでも開いて一、二か所読んで適用できる書ではない。特定の時間と場所で起こった実際の出来事と、その出来事に対する歴史家的な解説が含まれた歴史書である。
第二に、聖書は歴史の書であると同時に、啓示の書である。聖書は、神を人間に啓示してくれる書である。啓示という単語は覆いを取り除くという意味である。神ご自身が覆いを外してくださらなければ、人間は決して神を知ることができない。聖書は、歴史をとして神がご自身を現した書である。
第三に、聖書は歴史の書であり、啓示の書であると同時に、救いの歴史を記した書である。聖書は、神が人間を救うためにどんなことをしてくださったかを示してくれる歴史の書である。それで、聖書は、科学的な事実を証明することに焦点を置かず、聖書時代の文化と世界観の中で人間を救う神の偉大で驚くべきみわざに焦点を置いている。
第四に、聖書は歴史の書であり、啓示の書であり、救いの歴史を記した書であると同時に、預言とその成就が記された書である。預言とその成就は聖書全体を貫いている。神の啓示を受けた預言者たちは、まるで歴史家が過去のことを正確に記録するように、将来起こることを正確に預言し、その預言が成就した。釈迦、孔子、マホメットなどの行跡と教えを記録して神聖な経典と認められているどの書にも、預言は出てこない。マホメットが「コーラン」でメッカに戻ることを予言したが、それは彼が生きているときに実行可能なことなので、預言であるとは言えない。しかし、聖書には、旧約聖書だけで二千以上の預言が出てきて、そのとおりに成就した。ある人は、聖書の預言が成就したのは運が良かっただけであると言うが、はたして運が良くて二千にも及ぶ預言が成就するであろうか。
イザヤ46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。