征服して破壊する世の王 | |||||
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征服して破壊する世の王
「王が来られるので喜べ」という預言は、ゼカリヤ書九章一節から八節までのみことばを背景に理 解しなければならない。
一節から八節の預言のみことばは、ゼカリヤの時代から約二百年後に成就した。かの有名なギリシ アのアレクサンドロス大王がパレスチナ一帯を征服する内容が預言されている。紀元前三三四年、当 時わずか二十歳であったアレクサンドロスは、ペルシア帝国の支配下にあったギリシアの諸都市国家 を解放させる戦争を起こした。ついに紀元前三三三年、イッソスの戦いで、アレクサンドロスがペル シアのダレイオス三世と戦って勝利した後、北のシリアから征服を始めた。目標は南のエジプトであ った。まずシリアの主要諸都市が陥落した。
九章一節から二節に出てくるハデラク、ダマスコ、ハマテはシリアの主要諸都市である。アレクサ
ンドロスはこれらの諸都市を簡単に倒した後、地中海東部沿岸のフェニキアを攻撃した。フェニキア が誇る二大都市ツロとシドンもその対象となった。ツロとシドンは、当時、地中海貿易で巨万の富を築いた裕福な都市であった。三節を見ると、銀をちりのように積み、黄金を道ばたの泥のように積み 上げた都市であった。ツロは、陸地から海に二・五キロメートル離れた島に難攻不落の堅固な城を築 き、どんな国も倒せなかった都市である。アッシリアも五年間包囲したが、ついに陥落できず、バビ ロンのネブカデネザルも十三年間包囲したが、占領できなかった。ところが、アレクサンドロスは七 か月かけて海を埋め立て、島に至る道を築いてツロを陥落させた。
四節では、アレクサンドロスによるツロの陥落を「主はツロを占領し、その塁を打ち倒して海に入 れる」とある。神がアレクサンドロスを通して高慢で堕落した地をさばかれたのである。フェニキア のツロが倒れたとき、その下にあったペリシテの諸都市はみなおびえて恐れた。
ゼカリヤ9:5 アシュケロンは見て恐れ、ガザもひどくおののく。エクロンもそうだ。その頼みに
していたものがはずかしめられたのだから。ガザからは王が消えうせ、アシュケロンには人が住まな
くなる。
「ペリシテの諸都市は、アレクサンドロスの攻撃の前におののき恐れ、結局は陥落した。彼らは、ア レクサンドロス王の攻撃を防いでくれると信じていたツロが占領されたとき、絶望したであろう。ア レクサンドロスは、ペリシテの諸都市を順に占領し、エジプトに下ってエジプトまで征服し、ファラ オという称号を受けた後、再び上って来て、東へ占領に行く途中、三十二歳の若さでバビロンで急死した。
このようなアレクサンドロスの征服戦争が二百年前にすでに預言されたことは、何と驚くべきこと であろうか。驚かずにはいられない。聖書に対する畏敬の念をもって読まずにはいられない。まるで 見てから記録したのではないかと思われるほど、これらすべての預言はそのとおりに実現した。
ところが重要なことは、このアレクサンドロスが北のシリアから南のエジプトを征服しに下って行 ったとき、その間にあったエルサレムはどうしたかである。歴史家ヨセフスによると、アレクサンドロスはエルサレムには手をつけなかった。世の歴史家たちは、おとなしく降伏したので手をつけなか ったのだと言うが、すぐ前のサマリヤも無残に征服され、諸都市がどんなに残酷に情け容赦なく征服 されたかを見ると、特別な神の守りがあったとしか言いようがない。 八節で、神がアレクサンドロスの征服からエルサレムを守ると預言されていることは驚きである。
ゼカリヤ九・八 わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、 しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。
イスラエルの周辺のすべての国々は焦土と化した。神がアレクサンドロスを用いてその地をさばい たのである。しかし、神はエルサレムをアレクサンドロスの征服戦争から守った。火の城壁となり、 ひとみのように守るというみことばどおりに守ったのである。
神は、アレクサンドロスを国々に対するさばきの道具としてだけでなく、メシヤの来臨に備える道 具としても用いられた。アレクサンドロスの征服戦争以後、ヘレニズムがパレスチナ一帯に広がることによりギリシア語が公用語になると、旧約聖書がギリシア語に翻訳され、多くの人々に王の来臨を 告げることになった。おそらく、アレクサンドロスの征服によって言語環境が変えられなかったなら ば、教会の成長と福音の広まりは想像することもできなかったであろう。 「神はアレクサンドロスを用いられたが、実際、アレクサンドロス王自身は、神を王として認める者 ではなく、周辺諸国をしいたげる王であったにすぎない。自分の野望によって領土を拡大し、自らフ アラオとなって神のように君臨するために周辺諸国を侵略したのである。
当時、アレクサンドロス王が来ているという知らせは、みなにとって恐れであった。アレクサンド ロス王は抑圧して破壊するために来たが、後に来られる王は救いのために来られる。だから、喜び叫 んで王を迎えよというのである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。