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弟子として生きることに失敗した人々
by.CGNTV
hit 764 recomend 141 2019-01-16 02:10:43

弟子として生きることに失敗した人々      

 

オンヌリ教会 主任牧師 イ・ジェフン

 

イエスの「弟子」にならなくても「クリスチャン」でありうるという考えは、とても危険です。イエスは、どんな理由でご自分の前に進み出たとしても、そのまま受け入れてくださいますが、そこにとどまっていることを願われません。

聖書の中に、イエスに従う弟子として生きることに失敗した3つのタイプの人々がいます。第一に、一見すべてを捨ててイエスに従う弟子に見えても、内面はイエスに似た弟子の姿を示すことができない人々です。イエスがエルサレムに行く途中、サマリヤ人の町を通ろうとしたとき、弟子たちを先に送りましたが、その町の人々から受け入れられませんでした。そんな彼らに対し、ヤコブとヨハネは憤慨して、イエスに「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ 9:54)と言いました。しかし、イエスは彼らを戒められました。彼らは、イエスと自分たちを歓迎しないサマリヤ人たちは、天から下った火に焼き滅ぼされて当然だと考えました。彼らの態度を「征服主義」と言います。イエスを受け入れないなら滅ぼされてもいいという態度で、この世の人々を見る見方です。教会に対して冷ややかなら、天からの罰を受けるという考え方も同じです。

教会史の中で起こった数多くの宗教戦争は、教会がこのヤコブとヨハネのような態度を持っていたために起こりました。多くの人々が宗教裁判を通して火刑や銃殺、絞首刑に処せられました。天から火が下らないので、自ら火を作って人々に罰を下したのです。

>コリント人への手紙に「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく」(Ⅱコリ 10:4)とあります。宗教の美名の下で隣人を物理的に迫害することは、弟子の態度ではありません。神の国は、苦難の中でも柔和と忍耐によって広がっていくものであって、暴力や怒り、武力によって成し遂げられるものではないからです。

第二に、自分から弟子になると言いながら、弟子の道の代価を知ってあきらめた人々です。彼らは、自ら進んで「どこにでもイエスにつき従います」と言って、イエスの弟子になろうとしました。しかし、イエスが「人の子には枕する所もありません」(ルカ 9:58)と言うと、彼らは去って行きました。このような人々は、イエスに従うことが、どんな人生を意味するのかについて考えたこともなく、無計画に弟子になろうとします。このような態度を「盲目主義」と言います。イエスに従うことを、まるでアイドルの行く所なら、どこにでもついて行くファンのように、盲目的に考えるのです。イエスは、そのように盲目的に従う群れを喜ばず、ご自分に従う弟子の道の代価をきちんと計算してから従う弟子になることを願われました。

価なく救われた者に求められることは、自分を捨てるという代価です。キリストに従おうとするとき、最も妨げになるのは、昔の自分自身です。それでイエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタ 16:24)と言われました。自分の罪深さを認め、日々自分の十字架を負う代価を払わなければなりません。

第三に、イエスの召しを受けても、この世のものを捨てられず、ついて行けなかった人々です。イエスは彼らを「手を鋤につけてから、うしろを見る者」(ルカ 9:62)と評価されました。鋤を握ったなら、前進しながら畑を耕さなければならないのに、うしろを見ているというのです。鋤を手にして、うしろを見ながらイエスに従うことはできません。このような態度を、「名目主義」と言います。名目上のキリスト者としてのみ生きていきたい人です。家族が願わないなら、それほどまでしてキリストに従う道を歩みたくないという態度です。

A. W. トーザー牧師は、福音主義キリスト教会全般に広がっている異端があると言いました。それは「私たち人間は、救い主が必要だからキリストを受け入れることはできるが、その方を主とし、従うことは、私たちが望む時まで先延ばしする権利があるという考え」です。

名目主義のクリスチャンが最も多く口にする単語は「でも」です。「イエスに従います。でも」という言葉が多くなるほど、教会は力を失います。イエスは、彼らの口から出る、できない理由を聞きましたが、彼らの心の中のできないことではなく、したくないことを見られました。私たちは、自分がしたくないことを、「できない」理由によって装うのです。

神の国の緊迫感は、緊迫した弟子の道を要求します。決して引き下がれないという緊迫感です。誤った宗教的な高慢によってこの世を征服しようとする態度や、何の代価も払おうとしない盲目的な態度、緊迫した神の国よりもまず世のものを追い求めて手放そうとしない名目上の信仰者の態度を捨て、まことのイエスの弟子の道を歩まなければなりません。

 

イ・ジェフン

米国トリニティ神学大学(修士課程)修了。

ゴードン・コンウェル神学大学(博士課程)修了。

現在、オンヌリ教会 主任牧師。

 

 

本文は、『リビングライフ STORY 2019年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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