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ESSAY
後の雨の恵みが臨むとき
by.CGNTV
hit 339 recomend 122 2019-02-13 03:14:12

後の雨の恵みが臨むとき

 

ゼカリヤ書10章は、メシヤによる後の雨の恵みが臨むとき、その民にどんな祝福が臨むかをさまざまな表現で説明している。

第一に、神に一度も捨てられなかった者のようになる。

 

ゼカリヤ10:6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。

 

  キリストの十字架で臆われた人々は、まるで以前に神に一度も捨てられなかった者のようになる。 神が与えてくださる回復とは、単に堕落以前の状態に戻ることではない。神に捨てられたことのない者のように回復されることである。救いの恵みは、過去に罪の中にいたすべての苦痛を完全に補って余りある、なおもあふれる恵みである。

 

イザヤ43:25 もうあなたの罪を思い出さない。

 

エゼキエル36:11 わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。

 

  ある神学者は「堕落前に人間が神と交わっていた関係より、堕落後にキリストの十字架で救われたあと、人間が神と交わる関係のほうがもっと深く親密である」と言った。堕落が必ずなければならないという意味ではない。人間は堕落して神との関係を壊したが、キリストの十字架によってその堕落から神が回復させてくださったときは、堕落前よりもっと美しく、もっと完全な人間に回復されるというのである。堕落によって神に捨てられた傷が少しも残らないようにされるのである。

  アルフレッド・D・スーザが書いた詩の中に「愛せ、一度も傷ついたことがないかのように」というくだりがある。一度も傷ついたことがないかのように愛することができるであろうか。キリストの十字架の恵みと神の愛を経験すれば、できるようになるのである。

  生まれ育つ中で、多くの人に傷つけられ、捨てられたとしても、あるがままに私たちを愛し、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったキリストの愛を経験すれば、一度も傷ついたことがない者のように、ほかの人を愛することができるようになる。愛は、受けなくては決して与えることができない。神の驚くべき愛、偉大な愛、変わらない愛、無限の愛を経験すれば、一度も傷ついたことのない者のように、ほかの人々を愛せるようになる。このような恵みを経験した人の姿が、七節に出てくる。

 

ゼカリヤ10:7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子」 らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。

 

  この楽しみは、捨てられて再び受け入れられた喜び程度ではなく、まるで一度も捨てられたことがないかのような楽しみだというのである。罪と堕落に対する神のさばきが全くなかったかのように喜ぶことで回復されるというのである。神にあって楽しむのである。

第二に、神の合図によって集められるようになる。

 

ゼカリヤ10:8 わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贈ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。

 

  おもしろい表現である。羊飼いが羊たちを集めるとき、いちいち駆け回ったりしない。口笛を吹くと、羊たちは羊飼いの合図を聞いて集まる。羊たちが羊飼いの口笛の合図を聞いて動くように、キリストの十字架で贖われた人々は、神の口笛の合図を聞いて、羊飼いなるキリストの前に集まるのである。失われた神の羊たちを集めることは、人間の力のように見えても、実は神の合図が彼らを集めているのである。

 

イザヤ5:26 主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。

 

  口笛は、集める合図のためだけでなく、心が喜んで楽しいときに吹くものである。キリストが世に来られることで、神が口笛を吹くことができるようになった。神の愛される子どもたちに回復の道が開かれ、隔ての壁が崩れ、神の民が一つに集められるようになったからである。

  神の召しには、口笛のようにとても小さな音であっても、遠くからも戻って来させる力がある。神との関係が回復された人々は、神の口笛の合図を聞いて、遠い所からも神を覚えて戻って来るようになる。神は今も口笛を吹いて全世界の国々の民を集めておられる。

  伝道してみると、神が口笛を吹いて集めておられるのを感じることがある。福音を伝えてみると、終始冷ややかで、あざけり、そのうえ悪口まで言う人がいる一方で、なぜこのように尊い福音を今になって私に伝えてくれるのかと喜んで迎えてくれる人もいる。その人たちは、神の口笛の合図を聞いたのである。

  第三に、神に拠り頼むことにより、苦難の波に打ち勝つようになる。

 

ゼカリヤ10:11-12 彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ。彼らはナイル川のすべての淵をからす。アッシリヤの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れる。彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。 -主の御告げ-

 

  キリストの十字架により願われた人々は、苦難の波を打って勝利するようになる。神が起こされる苦難の波は、高いものも切り崩す波である。神は、エジプトとアッシリヤの高慢を砕くために、苦難の波を起こされた。ナイル川を酒らし、エジプトの統治力を失わせられた。もし私たちが彼らのよう に高慢になるなら、私たちも苦難の波の中に押し流されていくのである。

  苦難の波は、神の民を殺すために起こされるのではなく、神の敵対者たちを倒すために起こされる。神が起こされる苦難の波は、世の力に拠り頼む者たちを滅ぼす波である。世の力と権勢だけに拠り頼んでいるときは、この苦難の波に打ち勝つことができない。苦難の波に押し流されて消えてしまうようになる。

  苦難の波を打つ勝利は、まさに神に拠り頼むときに与えられる。神が苦難の波を与えられる理由は、神に拠り頼ませるためである。

 

ゼカリヤ10:12 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。-主の御告げ-

 

 「後の雨の時に、主に雨を求めよ」。私たちには約束された後の雨の恵みがある。キリストの十字架で贖われた人々に約束された豊かな祝福がある。「一度も捨てられなかった者のように」豊かな人生を生きることができる約束が与えられている。「神の合図を聞いて生きていくことのできる約束が与えられている。「苦難の海に勝利して生きていくことのできる約束が与えられている。このような約束を信じて、私たちは神に求めなければならない。

 

「約束された後の雨の恵みを注いでください!」

 

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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