羊飼いを嫌う「ほふられる羊の群れ」 | |||||
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羊飼いを嫌う「ほふられる羊の群れ」
ところが、この「ほふられる羊の群れ」は、羊飼いを嫌い、羊飼いの意図と導きに従わず、むしろ羊飼いを拒んだ。
ゼカリヤ11:8 私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった。
ほふられる羊の群れを飼って一月のうちに、神は三人の牧者を追い出したと言っている。神が嫌った三人の牧者はだれであるかに対する見解は実に多様だが、そのうち最も妥当な見解は、民を導いていた王と祭司、預言者を指すというものである。彼らは民を代表する三つの職で、これはつまり、すべての民を意味する。彼らは神が遣わされた牧者を嫌った。多くの人々が支持するからといって、必ずしも正しいわけではない。近頃の政治は支持率ですべてのことが評価されるが、この支持率は正否 とは関係ない。大衆の支持がなくても、正しいことを言える指導者が必要である。イエスの当時、イエスに対する支持率は、奇蹟を起こしたときは天にも上るかのように勢いがあったが、政治家たちが 裏で脅迫して計略を企てると地に落ち、群衆がイエスを十字架につけよと叫ぶまでに至った。十字架 につけられて死んだイエスを支持率で評価して信ぜよと言うならば、だれが信じるであろうか。 人々は、自分を救いに来た牧者を嫌って退けた。今の自分の状態がわからないだけでなく、それが
だれであるかすらわからないからである。しもべが主人を拒んだのであり、被造物が創造主を拒んだのである。
マルコの福音書12章の悪しきぶどう園の農夫たちのたとえは、羊飼いを拒んだ羊の群れを思い出させる。あるぶどう園の主人が、ぶどう園を貸して遠い旅に出かけたが、収穫の時が来て、収穫の分 け前を受け取るためにしもべを遣わしたところ、そのしもべをつかまえて袋叩きにして送り返した。 主人がもう一度別のしもべを遣わしたところ、そのしもべもなぐってはずかしめ、送り返した。主人はしもべたちを遣わし続け、農夫たちはそのたびごとになぐり、さらには殺した。主人は最後に、自分の息子は敬ってくれるだろうと言って、自分の愛する息子を遣わした。ところが農夫たちは、息子 を殺せば跡取りがいなくなるので、ぶどう園を自分たちのものにできると言って、息子まで殺してしまった。このような悪しき農夫たちがどこにいるであろうか。
しかし、ぶどう園の主人は、最初のしもべが犠牲になったとき、すぐに処置を取らず、しもべを遣わし続け、さらには息子までも遣わした。愛をもって忍耐したのである。神はいつも忍耐される。まず復讐せず、愛をもって忍耐される。農夫たちが主人の息子まで殺したとき、主人は無力で敗北したかのように見えた。農夫たちは主人を侮辱し、主人の息子まで殺した。意図しない侮辱ではなく、計画的な侮辱であり、悪しき反逆であり、主人の愛の忍耐を利用した悪行である。
主イエスの十字架は、人間が神に向かって加えた最高の侮辱であり悪行である。人間は神の御子を殺すことにより、世の主人になろうとした。しかし、御子を遣わした愛を拒むなら、もう与える愛は残っていない。残っているのは公義だけである。神が愛をすべて与え尽くしてくださったならば、もはや神の公義のさばきしか残っていないのである。神の御子の犠牲は、神の忍耐の限界点である。
神を信じない者たちはよく、イエスを信じなければさばきを受けるという言葉をとても嫌う。イエスを信じなければ、不敬罪でさばかれるという言葉として受け止めるからである。しかし、イエスを 信じないから不敬罪でさばかれるのではなく、信じなければ「ほふられる羊の群れ」の運命に置かれて死ぬしかないという意味である。イエスを信じさえすれば、「ほふられる羊の群れ」から救い出さ れ、祝福された羊の群れとなるという意味である。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。