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子どもの心に天の御国がある[ マタイの福音書18章1~5節 ]
by.CGNTV
hit 708 recomend 143 2019-04-26 15:21:51

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。

「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」(マタ 18:1)。

 

弟子たちに対するイエス様の関心は、彼らが天の御国にふさわしい者となることにありました。特に、十字架を負う時が近づくにつれ、イエス様は大衆から抜け出して、弟子たちとより多くの時間を送り、彼らに具体的に教えられました。

きょうの本文を見ると、イエス様は弟子たちに向かって、天の御国の民として大切なことは何かを教えておられます。それは、「謙遜」と「赦し」の問題です。今回は、謙遜についての教えを見ていきましょう。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか』」(マタ 18:1)。

この弟子たちの質問を見ると、彼らがいまだに霊的に未熟な状態であったことがわかります。弟子たちの関心は、だれが一番偉いかということでした。実際これは、すべての罪人たちに見られる共通の関心事です。会社の同僚、あるいは近所の人と比べて自分を評価するのです。しかしそれは、世の人々の関心事です。そのような価値観が人類を不幸にしてきました。私たちが今の暮らしに満足できず、不幸だと言う理由は、ほとんどの場合、自分の暮らし向きに対して葛藤があるからであって、永遠のいのちを所有できていないからではありません。イエス様の弟子たちもそのような関心から抜け出せないでいたので、「天の御国では、だれが一番偉いのか。序列があるとしたら、だれが先頭なのか」という質問をしたのです。

 

「そのとき」ということばの背景

「そのとき」(1節)、弟子たちは、イエス様が十字架につけられて死なれる時期が近づいたことを知り、不安を覚えていました。マルコの福音書を見ると、彼らはイエス様に聞き返すことさえ恐れていたことがわかります。

「それは、イエスは弟子たちを教えて、『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる』と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた」(マコ 9:31~32)。

イエス様は、十字架につけられる時が近づいたので、そのことを弟子たちに話されました。だとしたら、そのような状況で、弟子たちが取るべき態度は、イエス様とともに十字架の受難について考え、ともに悩むことではないでしょうか。

しかし、そのような状況の中で弟子たちは、天の御国ではだれが一番偉いのかという問題について討論していました。これは、病気で死にそうになっている父親の前で、子どもたちが「どうしたら父を生かすことができるのか」ではなく、「父が死んだら、だれが一番多く遺産をもらえるのか」について討論しているようなものです。イエス様が十字架につけられて死ぬという状況で、弟子たちはそのような討論を始めたのです。

 

天の御国には序列がない

私たちが考えるべきことは、「天の御国では、だれが一番偉いのか」という質問そのものが間違っているということです。世には序列や階級があります。それが歴史を動かす一つの原理になります。しかし、天の御国には、取るに足りないたましいはありません。序列も階級もありません。ですから、弟子たちのこの問いには全く意味がないのです。

イエス様は、弟子たちからこのようなあきれた質問を受けて、呆然とされたのではないでしょうか。どう答えたらいいか悩んだかもしれません。イエス様は次のような行動をされます。

「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です』」(マタ 18:2~4)。

イエス様は、ちょうど通りかかった子どもを呼んでそばに立たせました。そして「あなたがたは、この子どものようにならなければ、決して天の御国に入ることはできない」と言われました。イエス様はこのとき「まことに、あなたがたに告げます」と言って強調されました。また「決して」と確固とした意志をもって言われたことがわかります。

では、「子どもたちのようにならない限り」とは、どういう意味でしょうか。ここでの焦点は、子どもではありません。子どもがすべて天の御国に入るという意味ではありません。イエス様が言おうとされたみことばの焦点は、子どものように自分を低くする謙遜な心です。自分は取るに足りない者だと思い、階級や序列は重要ではないと考える謙遜な心の状態が、天の御国の鍵だという意味です。

天の御国に入る謙遜な人

マタイの福音書19章13~15節を見ると、人々がイエス様に手を置いて祈っていただくために、子どもたちを連れて来ました。このとき、弟子たちはその親たちをしかります。するとイエス様は「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです」(マタ 19:14)と言われました。イエス様は、子どものような信仰を偉大な信仰だと宣言されたのです。子どものように自分を高めることを知らない信仰、装うことを知らない信仰、純粋に信頼する信仰が、天の御国に入る信仰です。

 

天の御国には、どんな秩序があるでしょうか。階級や序列ではなく、謙遜です。教会はどうでしょうか。教会の真の指導力は何でしょうか。謙遜です。牧師や長老などの立場からではなく、謙遜から指導力が出るのです。どんな人が教会を正しく導くことができるでしょうか。謙遜な人、自分を低くする人です。イエス様の心情で人知れず仕える人が、教会の真の指導者であり、天の御国の姿を現す人です。イエス様は、そのことを教えておられるのです。

謙遜は、歳月が流れるほど難しくなります。初めてイエス様を信じた頃は何でもできそうに思いますが、自分を低くすることは、歳月が流れるほど難しくなります。自我は何度死んでもよみがえります。ある人は、自我が完全に砕かれたと言いますが、言葉で言うほど完全に自我が砕かれた人はいません。それは、ある意味、別の高慢にすぎません。人は、主に捕らわれていなければ、すぐに高慢になるのです。それで神様は、仕方なく苦難という方法で人間を治められるのです。苦難がなければ、人間は謙遜になりません。なぜなら、人間は自分を誇りたいという欲望を持った存在だからです。対人関係や自己との関係に満足できないのは、自我が強くなっている証拠です。イエス様が自分のうちで強くなるときには、どんな状況でも不満がありません。しかし、何か不満や葛藤があり、苦しいのは、自分が生きているからです。

どうしたら謙遜になれるでしょうか。一つだけ方法があります。自分を殺すことです。謙遜になれない理由は、自分が生きているからです。ですから、自分が死ななければなりません。自分を意識するところには、いつも高慢があります。罪とは、自我です。

では、どうしたら自分を捨てることができるでしょうか。それは、自分よりも偉大な方を見上げることです。イエス・キリストを見上げるとき、自分が死にます。太陽の前ではろうそくの火も力を失うように、イエス様が自分のうちで大きくなれば、自分の力はなくなります。ですから、謙遜の秘訣は、自分を捨ててイエス様を見上げることだけです。自分の考え、自分の方法、自分の感情などがあるなら、それを捨てさせてくださいと祈りましょう。

謙遜になるために、私たちが学ぶべきことがもう一つあります。3節に「悔い改めて」ということばがあります。謙遜になるためには、自分の意志ではっきりと悔い改めなければなりません。そして、自分よりも偉大なイエス様を見上げるとき、その方から真の謙遜を学ぶことができるのです。

 

 

オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ

 

本文は、『リビングライフ STORY 2019年3月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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