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ESSAY
羊飼いを売り渡した「ほふられる羊の群れ」
by.CGNTV
hit 568 recomend 75 2019-03-27 06:08:57

羊飼いを売り渡した「ほふられる羊の群れ」

 

 イエスの弟子であったイスカリオテ・ユダは、イエスを銀三十シェケルで売り渡した。驚くべきことに、この出来事は、ゼカリヤ書11章12節から13節に預言されている。

 

ゼカリヤ11:12-13私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いな さい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量 った。主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

 

 神に遣わされた羊飼いが受けるべき代価を要求したとき、彼らは銀三十を与えた。ほふられる羊の群れを救って守る羊飼いが、本当に受けたかった代価は何だったのであろうか。それは羊たちが羊飼いを信じて従ってくれることである。従順と信仰である。まことの羊飼いは、羊たちが自分を信じて従ってくれることによって安全で幸せになるなら、それで満足なのである。ところが、羊の群れは、銀三十という羊飼いの代価を払った。

 律法によると、銀三十シェケルは、奴隷を死なせてしまった場合の贖いの代価に該当する。もし他人の奴隷が牛に突かれて死んだ場合、牛の持ち主は、奴隷の主人に銀三十を払い、牛を石で打ち殺さなければならないと規定している(出エジプト21:32)。銀三十はしもべの贖い金なのである。

 イスカリオテ・ユダが、ユダヤの指導者たちからイエスを売り渡す代価として銀三十を受け取ったとき、律法に慣れ親しんでいた人々は、そのお金が何を意味するかをよく知っていた。それは、イエスを死んだ奴隷として認識したという意味である。彼らは、イエスをそれほどねたみ、あざけっていたのである。

 聖書に、イスカリオテ・ユダが裏切ることと、主人があざけられることが預言されていることから、イエスは予期もしなかった弟子の裏切りの犠牲となった、数奇な運命の指導者ではないということが立証される。イエスは、運命の犠牲者ではなく、運命の支配者である。指導者たちとユダがこの節を読んで、イエスが約束されたメシヤであることを示すために銀三十をやりとりしたのではない。彼らはイエスに対する蔑視と侮辱によって銀三十をやりとりしたのである。しかし、歴史を支配される神は、彼らの蔑視さえも支配し、預言を成就された。

羊の群れは、羊飼いを拒んで銀三十で売り渡したが、神が遣わされた御子は、良い羊飼いとして手の群れのために自分のいのちを捨てた。

 

ヨハネ10:11 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 

ヨハネ10:17-18 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれでも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

 

 イエスは、不当な裏切りによって仕方なく死んでしまったのではない。良い牧者として羊たちに代わって、ご自分のいのちを捨てたのである。この牧者のわざの代価として、私たちは何を差し出すべきであろうか。ほふられる羊の群れである私たちを救うために、自分のいのちを捨てた牧者の代価として、私たちは何を手放すべきであろうか。牧者が私たちに願う代価は何であろうか。それはお金ではない。信仰と従順である。それがまことの羊飼いに私たちがささげられる最高の代価である。私たちがささげる献金はイエスの代価ではない。もしそのように考えて献金するならば、してはならない。どんな大金を献金しても、キリストの犠牲に対するまことの代価である信仰と従順のない献金 は、銀三十のようにキリストをさげすみ、あざけることになる。

 しかし、どんなに小さな献金、やもめの二レプタであっても、信じて従う者の献金は、すべてをささげたのに等しいものとして尊ばれる。牧者であるキリストが要求される代価を、信仰と従順によって支払おう。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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