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ESSAY
まことの羊飼いを拒むなら
by.CGNTV
hit 258 recomend 77 2019-04-09 18:49:33

神が遣したまことの羊飼いを拒んではずかしめる羊の群れに、神が下される処置は何であろうか。 第一に、神はあわれまれない。

ゼカリヤ11章6節 「わたしが、もう、この地の住民を惜しまないからだ。――主の御告げ――見よ。 わたしは、人をそれぞれ隣人の手に渡し、王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼ら の手からこれを救い出さない。」

神があわれまない者たちの運命はどんなに悲惨であろうか。私たちがこの地で生きることができる のは、私たちをあわれんでくださる神のあわれみのゆえである。神のあわれみをすべて枯渇させてしまうものは、私たちの不従順と罪である。神が遣わされた良い牧者を銀三十で売り渡し、十字架につけてしまった罪である。ご自分のいのちを捨て、私たちに救いを与えてくださる恵みを拒んだ罪である。御子を与えてくださった神の愛を拒んで退けることは、神のあわれみを枯渇させてしまう。

十字架を拒むなら、神のあわれみは限界に達する。罪人たちに対する神のあわれみは、いつか終わる時が来る。神はあわれみによって忍耐してくださるが、これ以上忍耐できなくなると、むごたらしい滅亡がやって来るのである。

神があわれんでくださらなければ、人間の指導者たちからもあわれみを受けられないようになる。

ゼカリヤ11章9節 私は言った。「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」

初代教会の当時、歴史家ヨセフスは、これを三重のわざわいと呼んだ。「死にたい者は死ね」(訳者注 : 口語訳「死ぬ者は死に」)とは、疫病とききんで殺されることを意味し、「隠されたい者は隠されよ」

(訳者注 : 口語訳「滅びる者は滅び」)は戦争で殺されることを意味し、「残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい」(訳者注 : 口語訳「残った者はたがいにその肉を食いあうがよい」)は、極度の混乱によって、人が狼のように相手の肉を食べる野獣に変わってしまうという、地獄のような惨状を意味する。

神のあわれみが絶えると、歴史は極度の混乱に陥ってしまう。私たちは日々このように祈らなけれ ばならない。

「神さま、この地をあわれんでください! 私たちの家庭をあわれんでください! 主よ、私をあわれんでください!」 第二に、神が慈愛と結合の杖を折られる。

ゼカリヤ11章10節 私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るためである。

ゼカリヤ11章14節 そして私は、結合という私のもう一本の杖を折った。これはユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破るためであった。

神が牧者の二本の杖を折られたというのは、牧者と羊との約束を破られたという意味である。もは や牧者の恵み深い守りを与えないというのである。神が今まで守ってくださった理由は、神が恵みに よって結んだ約束のためである。神はその約束を守り、その約束どおりに行い、関係回復のためにで

きるすべての方策を試みた。それにもかかわらず、最後まで立ち返らず、神の恵みを拒み、牧者を退

けるという極みにまで達すると、神はその恵みの約束を破棄される。神の愛が神の公義に反すること

はできないからである。

神はその約束を守るために御子まで差し出した。それなのに、私たちがその愛を受け入れないな ら、これ以上約束は無意味なので、その約束を破棄される。神がまだ恵みの杖を取り去られないこの 時が、恵みを受ける時であり、救いを得る時である。恵みの杖で私たちを治めておられるこの時が、 牧者の恵みを受け入れるべき時なのである。 第三に、神が悪い牧者が羊の群れを治めるように引き渡される。

ゼカリヤ11章16節 見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。

新しく起こされるこの牧者は、良い牧者ではなく悪い牧者である。神が悪い牧者を起こされるのではなく、自ら治めようとする悪い牧者を阻んでくださっていた神の恵みが取り去られたので、結果的 には起こすことになるのである。良い牧者を受け入れない場合、愚かで悪い牧者がその座を占めると いうのである。キリストの統治を拒むと、自らサタンの統治下に入ることになる。キリストを拒んだ 罰として、悪しき指導者が治めるようになる。 この悪い羊飼いの行為が六つ記されているが、まことの羊飼いとはことごとく正反対の姿である。 第一に、失った羊のことを考えもしない。 第二に、道に迷った羊を捜さない。 第三に、傷ついた羊をいやさない。 第四に、丈夫な羊さえ養わない。

第五に、肥えた羊はほふり、自分の実利だけ満たす。

第六に、羊たちのひづめを裂いて、牧場に出て草を食めないようにする。

イエス・キリストを拒んで退けることは世の中で最も愚かな選択である。ほふられる羊の群れを救いに来る羊飼いを拒むことだからである。危機に瀕した自分を救いに来た方を拒んで退けることだか らである。神の最後の恵み、最高の愛を退ける者には、最後のさばきと最悪の刑罰が残されている。

イエス・キリストが神の遣わされた良い羊飼い、まことの羊飼いであるという証拠は、イエスの教えと生き方、そして十字架の犠牲を通して明らかにされた。その愛と犠牲にまことの代価を払わない なら、その代価は私たち自身が払わなければならない。イエスが要求される代価は、信仰と従順、感 謝と礼拝である。

イエス・キリストを羊飼いとして受け入れれば、主が慈愛の杖と結合の杖で私たちを導いてくださる。イエス・キリストを羊飼いとして受け入れた人生は、どんなに幸いな人生であろうか。詩篇の著 者はその幸いを次のように告白している。

詩篇 23篇4-6節 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが 私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつま でも、主の家に住まいましょう。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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