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ESSAY
なぜ嘆くのか
by.CGNTV
hit 476 recomend 137 2019-04-26 15:20:29

しかし、このような涙は無理やり流すことができるものではない。俳優が劇中人物になりきって引 き出すような涙ではない。上から何かが心に注がれ、それによって心から流れ出る涙である。

ゼカリヤ12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

この嘆きの涙は、ある覚醒や悟りによって生じるのではなく、神が注いでくださる聖霊によって生まれ変わった心から生じるものである。悔い改めの嘆きは、生まれ変わったたましいの最も重要な特徴である。悔い改めることで生まれ変わるのではなく、生まれ変わることで悔い改めるようになるの である。

悔い改めとは、罪を吐き出すことである。生きている人は不純物が口に入ると吐く。ところが、死んだ人は不純物を吐き出すことができない。たましいが生き返れば、たましいの不純物を吐き出すようになるが、その時、嘆きの涙がとめどもなく流れ出る。

ある人は、聖霊が心に臨めば、教会の礼拝堂に入った瞬間から涙が流れ、みなが笑っている状況で も涙が流れるという。この嘆きの涙は、聖霊が,恵みと赦しを求める心"を注いでくださったために流れるのである。

聖霊が臨まれると、自分は神の恵みと赦しがなくては、とうてい救われえない存在だということに 気づく。聖霊が臨まれると、罪に対して、義に対して、さばきに対して悟るようになり、自分の罪と不義によって受けるべき神のさばきがあることに気づく。そうして、神に恵みと赦しを求める心が生じるようになるのである。

恵みと赦しを求める心は、イエスの十字架を仰ぎ見るときに聖霊が注いでくださるものである。十字架で槍に突き刺されたイエスを仰ぎ見るとき、私たちは神に赦しと恵みを求めるようになる。聖霊は、私たちが十字架を仰ぎ見るとき、イエスがなぜ十字架で死なれたのか、だれがイエスを殺したのかを悟らせてくださる。

だれがイエスを十字架につけ、だれがイエスのわき腹を槍で突き刺して水と血を流させたのだろうか。イエスを直接殺したのはローマの兵士たちだが、彼らは命令どおりに行ったにすぎない。イエス も彼らを赦された。とはいえ、命令に従った彼らの行動はイエスに赦されたかもしれないが、彼らが イエスをあざけってしいたげた責任は免れない。 兵士たちに十字架刑を実行するように命じたローマ総督ポンティオ・ピラトの責任も明白である。

ピラトはイエスの無罪を確信したが、ユダヤの指導者たちが激しく反発することを恐れ、自分の良心を無視して政治的な野望を選択した。このピラトの卑怯さのゆえに、イエスは十字架につけられることになった。

ピラトにイエスを殺した罪があることは明白だが、ピラトを苦境に陥れた人々は、ユダヤの指導者 たちである。彼らはイエスを裁判にかけるよう群衆を扇動し、イエスの十字架刑を要求するようけしかけた。ユダヤの指導者たちがそのようにしてイエスを死へと追いやった理由は、ねたみのゆえであ った。そして、イスカリオテ・ユダがイエスをユダヤの指導者たちに売り渡した理由は、金銭のため であった。

イエスは、ユダの金銭に対する貪欲のゆえにユダヤの指導者たちに引き渡され、ユダヤの指導者たちのねたみのゆえにピラトに引き渡された。そして、ピラトの卑怯さのゆえに兵士たちに引き渡され、兵士たちはイエスをあざけり、十字架につけた。

しかしながら、イエスの死に対して、彼らにだけ責任を問うことができるであろうか。もし、私 たちにユダのような金銭に対する貪欲さがあるなら、そしてユダヤの指導者たちのように嫉妬深いなら、ピラトのように卑怯なら、私たちも彼らと同じように行動したであろう。いや、実際に私たちは そのようにした。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53:5)。また「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを」という讃美 歌(第2編177番)の歌詞もある。この質問に、私たちはこのように答えなければならない。

「そうです。私たちも見ていました。単なる見物人としてではなく、陰謀を胸に秘め、計画を立て て裏切り、卑怯な取引で売り渡し、十字架につけ、それらすべてのことに携わった者としてそこにい ました。そしてまた、私たちはそこにいました。イエスが死なれたその死とともに死んだ者として、 私たちもそこにいました」と。

レンブラントは、十字架につけられたイエスを描くとき、取り囲んでいた群衆の中にひとりの男を 描き込んだ。その男は全体の絵に全く釣り合わない人物なので、人々はその男をレンブラント自身だと解釈している。それが正しければ、彼はそこに自分もいたということを告白しているのである。

十字架につけられたイエスを仰ぎ見るとき、私たちは激しく泣かずにはいられない。なぜなら、私たちがイエスを十字架につけたからである。そして、イエスは私たちに代わって十字架につけられたからである。そのため、私たちは、涙なしには十字架を仰ぎ見ることができない。涙なしには十字架 を悟ることができない。十字架を仰ぎ見て嘆きの涙を流し、恵みと赦しを求めない人は、神の救いの祝福を味わうことができない。自分の罪を悲しむことのできない者には、救いの望みがない。だから こそ、ヤコブは悲しむことを命じた。

ヤコブ 4:9 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

十字架を仰ぎ見るときに激しく泣いて嘆く人は、救いの喜びを経験する。神の愛と慰めを経験する。そして天の御国を経験する。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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