嘆きの深さ | |||||
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12章のみことばは、十字架を仰ぎ見て悲しむ嘆きがどれほど深いものでなければならないかを、 二つの例を挙げて説明している。
一つは、ひとり子を失った親の悲しみである。配偶者を失った悲しみや親を亡くした悲しみよりも、ひとり子を失った悲しみは、私たちが地上で感じる最も深い悲しみである。死のような苦痛であ る。子を失った人だけが感じる苦痛である。
ところが、神は、そのひとり子を十字架につけて死なせるために引き渡された。そのひとり子が槍で突き刺され、水と血がすべて注ぎ出るようにされた。ひとり子を失った悲しみは、神の悲しみであ る。私たちが十字架につけたイエスを見て激しく泣かずにはいられない理由は、私たちが神のひとり 子を殺したからであり、私たちの槍で神の心を刺し通したからである。 もう一つは、正しい指導者を失った悲しみである。
ゼカリヤ12:11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きの ように大きいであろう。
11節のみことばは、旧約時代の南王国ユダの善王ヨシヤがメギドの谷で負傷して死んだとき、民 が嘆き悲しんだ姿を思い出させる。ヨシヤ王は律法に記されたとおりに良いことに力を尽くした王で あった。彼は傾いていく王国の最後の望みであった。そんな彼が死ぬと、ユダ王国は急転直下で滅んでしまった。すべての民は善王の死を深く嘆き悲しんだ。国家を正しく導いていた指導者が失われた ら、国中が嘆き悲しむ。共同体全体がともに嘆き悲しむのである。
私たちは、十字架につけられたイエスを仰ぎ見るとき、この二つの嘆きがともに生じる。だれもが 悲しまずにはいられないような共同体全体の嘆きであり、ひとり子を失った一家庭の深い嘆き悲しみである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。