嘆きの涙が成し遂げたこと | |||||
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このような嘆きが、ゼカリヤ書の預言どおりにエルサレムで起こった。五旬節に聖霊が豊かに臨んだとき、人々はメシヤを殺した自分たちの罪を悟り、胸をたたいて嘆き、激しく泣いた。
使徒 2章36-37節 「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たち はどうしたらよいでしょうか」と言った。
十字架を仰ぎ見て悲しむ嘆きの涙は、福音があかしされる先々で現れた。エルサレムで始まった嘆きの涙が、ユダヤとサマリヤの全土と地の果てにまで流れ始めた。福音が伝えられるとともに、嘆きの涙を流す地域が拡がったのである。十字架につけられたイエスがキリストであるという知らせを聞いたガラテヤの人々は、イエスを一 度も見たことがないにもかかわらず、嘆き悲しんで涙を流した。ピリピの人々も泣き始めた。十字架 につけられたイエスがキリストだという知らせが伝えられる先々で、嘆きの涙の川が流れ始めた。これが聖霊のみわざである。
宣教の歴史は嘆きの涙の歴史である。福音が伝えられる先々で、嘆きの涙が川のように流れる歴史 である。リバイバルが起こった所では、いつでも涙が川のように流れた。すべての民族と国々が十字 架を仰ぎ見て激しく泣くとき、新しい天と新しい地が私たちに臨むのである。
ところが、十字架を仰ぎ見る嘆きの涙は、個別に流すものである。群衆心理で流す涙ではない。だれかの涙につられて流す涙でもない。個人的にその十字架を仰ぎ見て流す涙である。それで、12章12節から14節には「ひとり」という単語がくり返されている。
ゼカリヤ12章12-14節 この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
「ひとり」という単語が十一度もくり返されている。「ひとり」と翻訳された単語は、個別に"と いう意味である。それぞれ個別に人格的な反応によって十字架で刺し通されたメシヤを仰ぎ見て激しく泣くというのである。
ダビデの家、ナタンの家、レビの家、シムイの家が列挙されているが、それぞれすべての家が別々 に嘆く。霊的嘆きは、教会という共同体だけでなく、家庭内でも現れなければならない。家庭ごと、 親族同士ともに集まって祈り、嘆かなければならない。
特に「その妻たちもひとり嘆く」ということばがくり返されていることが興味深い。「妻たちもひとり嘆く」ということばが強調されているのは、当時は妻たちが独立した人格として扱われていなかったからである。当時は「妻もひとり」という表現が似合わない時代である。妻は夫に完全に従属していて、妻の個人的な感情や判断は顧みられなかった時代だからである。このような時代に妻たちがひとり嘆くとは、どんなに偉大なみことばであろうか。
今日どれほど多くの妻たちがひとり泣いているであろうか。夫が理解できない十字架の奥義を先に 悟り、その十字架を仰ぎ見て泣き、夫もその十字架を仰ぎ見ることができるようにと泣いて祈っている妻たちが多い。 夫たちが覚えておくべきことは、悔い改めの涙は妻が代わりに流してあげることができないということである。妻たちが覚えておくべきことは、夫が妻に代わって悔い改めの涙を流してあげることができないということである。妻は妻自身の罪を、夫は夫自身の罪を嘆いて涙を流すのである。それぞれ自分の罪を嘆き、十字架で刺し通された主を仰ぎ見て激しく泣かなければならないのである。
イエスが十字架の道、ビア・ドロローサをよろめきながら歩んで行かれたとき、胸をたたいて泣いている女たちがいた。その姿をご覧になったイエスは、泣いている女たちに向かって歩みを止めて言 われた。
ルカ23章28節 「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」
ご自分のことで泣いている女たちの姿を見て、イエスは苦痛の中で口を開いて言われた。兵士たち は女たちの泣き声に全く反応しなかった。ところが、心が柔和で謙遜なイエスは、女たちの悲しい泣 き声に敏感に反応された。ヘロデには沈黙し、ピラトにもわずかしか口を開かなかったイエス、むち打たれ、あざけられるときも、まるで毛を刈る者の前で黙っている羊のように黙っていたイエスが、 泣いている女たちの姿を見て、この沈黙を破られた。
「私のために泣かず、あなたがたとあなたがたの子どものために泣きなさい」 まず「わたしのことで泣いてはいけない」と言われた。女たちに泣いてはいけないと言ったのは、 泣くこと自体が間違っているということではない。イエスは悲しむことを禁じたわけではない。イエ スが立ち止まって口を開いたのは、むしろ女たちを称賛するためだったのである。そして、どんな態 度でイエスの死を受け入れるべきかを教えたのである。
「わたしのことで泣いてはいけない」とは、十字架につけられたイエスをただ同情して泣いてはいけないということである。同情の涙はいくらも経たないうちに涸れてしまう。イエスの苦難を黙想して、イエスはかわいそうな方だと同情して終わってはならず、嘆きの涙がなければならないと言われたのである。
「私のために泣かず、あなたがたとあなたがたの子どものために泣きなさい」と言われたのは、 イ エスが死なれたためではなく、むしろイエスが死なれなければならなかった理由のために泣きなさい という意味である。十字架の死を悲しんではならず、イエスを十字架につけたあなたがたとあなたがたの子どもの罪を嘆いて泣きなさいと言われたのである。
スポルジョン牧師は「主イエスの死のために泣くことは、治療を悲しむことと同じである」と言った。治療を受けなければならないために悲しむのは、望みのない行動である。治療を受ければ良くなるという望みのために、喜んで痛みをこらえるのが当然である。
治療を悲しむのではなく、病気を悲しまなければならないように、イエスが受けた苦しみのゆえに泣くのではなく、イエスが十字架につけられてまで負われた罪が、まさに私たちの罪だという事実のゆえに泣かなければならないのである。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。