泉が開かれる | |||||
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泉が開かれる
イスラエルの例祭のうち、仮庵の祭りは、イスラエルの民が荒野に住んでいたことを覚えて記念する例祭である。荒野の時代を記念するとき、彼らが忘れることのできない最もドラマチックな場面は何だったであろうか。木の枝で造った天幕に住んでいたことよりもドラマチックな経験は、彼らが荒野で水がなくて苦しんでいたとき、神がモーセを通して岩から水がわき出るようにされたことである。それで、イスラエルの民は水をわき出させる神のみわざを歌った。
民数記21:17そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。―このために歌えー」
水のない砂漠や荒野を歩いているとき、「わきいでよ。井戸!」と歌おう。不平は絶望を呼ぶが、信仰の歌は井戸の水をわき上がらせるのである。
仮庵の祭りの儀式のクライマックスは、モーセが岩から水を出す奇蹟を覚える儀式である。祭司は朝ごとにギホンの泉という所に行って、金のかめで水を汲んで来て、長く並んだ民の間を通って神殿に行く。続いて角笛の音が長く響き渡ると、祭壇を回りながら水を注ぐ。一週間、一日に一度、その ようにする。最終日には、エリコの町を回ったときのように、七度回りながら七度注ぐ。そうすることで、モーセが岩から水を出した奇蹟を再現したのである。ところが、ある仮庵の祭りの最終日に、祭司が昔のように水を七度注いだとき、イエスがこのように叫ばれた。
ヨハネ7:37-38 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
イスラエルの民は、仮庵の祭りに水がわき出た奇蹟を覚える行事を熱心に行ったが、本当に水がわき出す奇蹟は経験できなかった。水を注ぐ行事は宗教儀式にすぎない。水ためや貯水槽は、だれかが水を汲んで来て注がなければならず、水を汲んで来て注がなければ、いつかは涸れてしまう。ところが、わき水は流れ続ける。
信仰は、水を注ぐことではなく、水がわき出ることである。イエスは、宗教儀式としてではなく、 実際にモーセのように水を流れ出させる方であるとご自分を紹介しておられる。いまや岩から水がわき出すのではなく、私たちの心の奥底(腹)から水が流れ出る奇蹟を与えると宣言されたのである。
心の奥底から生ける水が流れ出る経験をしたことがあるだろうか。私たちに必要なのは、心の奥底から流れ出る水である。心の奥底から流れ出る生ける水を渇望しなければならない。生ける水の源であられる神とともに歩む人は、水があふれ流れる人生を生きるようになる。私たちの中にある汚れた罪は、中から外に生ける水があふれ流れてこそ洗い流されるのである。
ゼカリヤ13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
人々の罪と汚れを洗いきよめる泉が開かれるというこの預言は、イエスが十字架につけられ、その脇腹が槍で突き刺されたときに成就した。この泉は血潮の泉である。12章で預言された槍に刺し通されたイエスの脇腹がこの泉の源である。そこから私たちをきよめる血と水が出たのである。
七節では、剣が神の牧者、神の仲間の牧者を打つと預言している。神の牧者であるイエスが世の権力者たちによって殺されることを預言したのである。槍で突き刺されたイエス・キリストを仰ぎ見て、彼を突き刺した自分の罪によって嘆き悲しんで激しく泣く者たちに約束された祝福は、イエスの突き刺されたわき腹が生ける水の泉となることである。裂けた岩から生ける水がわき出たように、裂かれたキリストのからだから生ける水の川が流れ出るのである。その血潮の泉を経験した人は、絶望から脱し、心の病が消え、新しい回復を経験するようになる。
ウィリアム・クーパーという詩人は、六歳の時に母親が世を去り、生涯うつ病に苦しめられた。32歳の時、アヘンを買って死のうとして馬車に乗り、御者にテムズ川に行くように告げた。橋から飛び降りて自殺しようとしたのである。ところがその日の晩、ロンドンに深い霧がかかって、一時間走っても、目的地に辿り着くことができなかった。そして驚いたことに、馬車が止まった所は自分の家の前だった。翌日の朝、クーパーは書斎でナイフを捜して体を刺したが、ナイフが古くなって肋骨に当たって刃が折れ、死には至らなかった。すると、今度は首をつって死のうとした。ところが、彼が意識を失ったとき、ひもが切れて生き返った。
33歳の時には精神病院で十八か月間も過ごした。ところが、彼はそこでローマ人への手紙3章25節を読んで、聖霊の力強いみわざを経験した。イエスがなだめの供え物となられることで自分が 救われたということを確信し、神が今までの罪を赦してくださったことを経験した。この時から彼の人生は完全に変えられた。この時、彼が作詞した曲が「泉の水のような血潮」(聖歌428番「尊き泉あり」)という讃美歌である。彼は不安な心と精神錯乱が襲って来るたびに、主の血潮を賛美する詩を書いた。彼の講美歌を原語から直訳すると、歌詞は次のようになる。
インマヌエルのからだから流れ出る血潮の泉の水がある
そこに飛び込んだ罪人はすべての汚れた罪が洗われる
すべての罪が洗われる すべての罪が洗われる
そこに飛び込んだすべての罪人はすべての罪が洗われる
死にゆく強盗この泉を見つけて喜んだ
あの強盗のように悪かった私も すべての罪が洗われた
私のすべての罪が洗われた すべての罪が洗われた
あの強盗のような私も すべての罪が洗われた
信仰によって主の血潮があふれ流れる小川を見た
贖いの愛が私の賛美のテーマとなったので生きる限りいつも歌う
いつも賛美する いつも賛美する
贖いの愛が賛美のテーマとなったのでいつも賛美する
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。