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ESSAY
泉が開かれるとき、消えるもの
by.CGNTV
hit 507 recomend 132 2019-07-01 11:12:53

泉が開かれるとき、消えるもの

 

罪と汚れをきよめる泉が開かれるとき、そのわき出る血潮の泉の水によって取り除かれるものがある。第一に、偶像が取り除かれる。

 

ゼカリヤ13:2 その日、 万軍の主の御告げ――わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。 その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。

 

偶像はなぜ生じたのであろうか。人々はなぜ神を捨てて偶像を造るのであろうか。神が自分の欲求を満たしてくれる方ではないと感じるからである。切に助けが必要なのに、神が無関心であるかのように思えるとき、人々は予測不可能な神よりも因果応報が確実に見えるものに心が引かれる。これこそ多くの偶像が生じた理由であり、偽預言者たちが活動する理由である。

神はエレミヤを通して、イスラエルの民が滅んだ原因は二つの悪を行ったからであると指摘する。

 

エレミヤ2:13 わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

 

第一の悪は、湧き水の泉である神を捨てたことである。第二の悪は、水をためることのできない、こわれた水ためを掘ったことである。ここで湧き水の泉と水をためることのできない水ためを比較している。水のわき出る泉があるのに、これを無視して、水をためられないこわれた水ためを作るのは愚かなまねである。ところが、湧き水の泉を無視することと、こわれた水ためを作ることは、互いにつながりがある。私たちが神への渇望を失ってしまうと、自分のための神を作る渇望を抱くようになる。チェスタートンも「私たちが神を礼拝することをやめるとき、私たちはだれも礼拝していないのではなく、ほかの何かを礼拝しているのである」と言った。

ヨハネの福音書を見ると、生ける水の源である神を捨て、自ら水ためを作ったひとりの女が出てくる。ヨハネの福音書四章でヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女である。彼女には夫が六人もいて、今いっしょに住んでいる男も夫ではなかった。この女の問題は何だったのであろうか。それは渇きであった。その渇きを解決するために自ら水ためを掘ったが、その水ためは水をためることのできないこわれた水ためであった。夫に出会ったが渇きがいやされず、また新しい夫に出会うといった 具合に、六つの水ためを自ら掘ったのである。しかし、みな水をためることのできないこわれた水ためであった。

イエスは、この女に水を飲ませてくれと頼んでから、このように言われた。

 

ヨハネ4:13-14 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

 

イエスは内から外にわき出る泉の水を与えると言われた。このような泉が開かれると、渇かないようになるので、自ら作った偶像はみな取り除かれる。偶像を思い出さないようになる。

第二に、偽りが取り除かれる。ゼカリヤ書13章3節から6節は、偽りを語った預言者たちが自ら預言者ではないかのように自分を隠すようになると言っている。偽りがこれ以上通じなくなるからで ある。偽った人は弁明と偽装で生きていく。偽預言者たちは、また別のうそで自分を隠す。自分も偽者であることを知っているので、うそをつくしかないのである。偽りはまた別の偽りを生む。偽った人は、自分の偽りを隠すために絶えず偽りを語るようになり、次第に真実といのちから遠ざかって滅びへと向かう。最も近い家族であっても偽りの預言をする者たちを受け入れないようになり、彼らは偽りの預言をするときに着ていた毛衣も着ないようになる。そして、自分は預言者ではなく農夫だと言い、「若い時から土地を持っている」(訳者注:韓国語改訳改訂訳「幼い頃から人の奴隷となった」)と言う。だれかが彼の胸に偶像礼拝をした痕跡を見つけて「この打ち傷は何か」と問うと、「私の愛人の 家で」(訳者注・韓国語改訳改訂訳「友人の家」、口語訳「友だちの家で」)打たれた傷だと言い繕う。

しかし、罪と汚れを洗う泉が開かれると、そのような偽りは消え去る。十字架の共同体、血潮の泉が流れる共同体では、偽りが通じなくなる。汚れた霊が消え去り、新しい霊と新しい心が臨むからで

ある。

本当に洗うべきものは、汚れてしまった私たちの心であり霊である。私たちの中には罪と汚れの泉 がある。絶えず罪をわき出させる泉がある。しかし、感謝なことに、もっと大きな力を持った泉がある。イエス・キリストの血潮の泉である。この血潮の泉にどぶんと飛び込むと、偽りや汚れた悪霊が 消え去る。アンドリュー・マーレー牧師は、その泉で自分の体を洗うと言っている。

「聖霊の力によってその泉は天の御国の神殿を通って流れる。信仰によって私はその泉から流れる水に最も近くで触れることができる所に自らを置く。そこにわが身をゆだね、その水が体を覆って流れるようにする。私はその泉の水で体を洗う。その泉の水はきよくする力と敬虔にする力を与えてくれる。 私は見えるものから立ち返り、ただ単純な信仰でその泉の水の祝福された力が私の中に現れるようになることを確信し、救い主の血潮を意味するその霊的な泉にわが身を投じる」

私たちは、ただ聖日ごとに集まって解散することに満足してはならない。私たちみなが、キリストの血潮の泉に身を投じて、きれいに体を洗って戻って行かなければならない。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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