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ESSAY
泉が開かれるとき、消えるもの(2)
by.CGNTV
hit 1079 recomend 122 2019-07-12 14:05:22

泉が開かれるとき、消えるもの(2)

 

第三に、信仰の不純物が取り除かれる。

 

ゼカリヤ13:8-9 全地はこうなる。――主の御告げ―その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。

 

三分の二は滅び、三分の一は残るというみことばで、その数を文字どおりに解釈する必要はない。残りの者たちがはるかに少ないという意味である。イエス・キリストを信じる信仰によって残りの者たちが通過すべき過程がある。それは試みと精錬の過程である。

偶像と偽りを取り除いても、まだ取り除かなければならないものがある。私たちの信仰の中に潜んでいる不純物である。ヨブは火によって精錬されるような試練の過程を通りながら、このように告白した。

 

ヨブ23:10 しかし、神は、私の行く道を知っておられる。私は金のように、出て来る。

 

ヨブがわかることはただ一つだけであった。神が自分を精錬しておられるということ、そしてその精錬が終われば、自分は純金のような人になれるという信仰であった。すべてのものを失っても、純金のような自分が残るという信仰があった。ヨブが受けた苦難については、罪のない者も苦難を受けると解釈してはならない。ヨブ記が教えてくれる教訓は、ヨブのように正しい人、神が誇るに値するような義人にも、なお燃やさなければならない不純物が残っているということである。ヨブでも燃やさなければならないものが残っていたのなら、ましてや私たちはどんなに多くのものを燃やさなければならないであろうか。

聖書で神が精錬される過程を、銀と金を精錬することにたとえる場合が多い。銀と金を精錬することは、どんな金属よりもはるかに精巧で繊細な作業である。神がたましいをきよめるとき、銀と金を精錬する作業のように、細心の注意を払うというのである。銀は、溶けるときに泡を出しながら酸素を約二十回も噴き出すそうである。ところが、溶けた銀は炭素とともにすぐに処理しないと、空気中の酸素を再び吸収して純度を失ってしまうそうである。それで、酸素が銀と再化合しないように、素早く炭素とともに処理できるよう、細心の作業をしなければならない。

聖書で神が、銀を精錬されるように私たちを練ると何度も語られた理由がもう一つある。銀を精錬するとき、銀が純粋な銀となったことがわかる方法がある。すべてのかすが取り除かれると、銀は突然精錬師の姿が映る液体の鏡となる。純粋で透明な液体の状態の銀に、精錬師の姿が鏡のように映るまで、火で精錬し続けなければならないのである。

このことは、神が私たちをいつまで精錬されるかを示している。神が私たちを精錬されるとき、その目標は、神の御子イエス・キリストのかたちが映るときまでである。神は私たちをあるがままに愛されるが、決してそのままに放ってはおかれない。私たちを精錬する神のご計画と目標は、ただ一つ、私たちをイエス・キリストのかたちに作り上げることである。

マックス・ルケードは『イエスのように』という書で、天の御国で実現する驚くべき出来事をこのように説明している。

「天の御国のすべての祝福の中で最も大きな祝福の一つは、まさにあなたとなることです。あなたは神の傑作、神の芸術作品になります。御使いたちが敬慕します。神の作品は完成します。ついに、あなたは神の心がわかるようになります。あなたは完全な愛で愛するようになります。あなたは光り輝く顔で礼拝するようになります。あなたは神のことばを単語一つまですべて聞くようになります。あなたの心はきよくなり、あなたの言葉は宝石のように、あなたの考えは宝のようになります。あなたはイエスのようになるのです。ついに、あなたは神の心を抱くようになります。イエスの心を想像してみましょう。それがあなたの心となるでしょう。罪のない心、神を畏敬する心、喜びと感激の心、飽くことを知らない礼拝の心、傷のない分別の心、涸れることのない清い渓谷の水のような心、あなたの心もそのようになるでしょう。あなたはイエスのようになるのです」

精錬の過程を終えた者たちに神が与えてくださる祝福が九節に記されている。

 

ゼカリヤ13:9 彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。

 

イエスが十字架で流された血潮が私たちにいのちの泉となり、虚しい偶像と偽りは消え去り、私たちは精錬の過程を通してより一層聖い神の民に変えられる。

その血潮の泉の水で日々体を洗おう。その泉のそばにとどまろう。そうすれば、偶像は根づくことができず、偽りは消え去る。どんなふうに精錬されても、最後には聖い神のかたちに変えられるのである。

 

本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。

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