主はなぜ来られるのか | |||||
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主はなぜ来られるのか
第三に、イエスの再臨と関連して最も重要な問いは、なぜ再び来られるのかである。いつ、どのように来られるのかよりも重要なことは、なぜ再び来られるのかである。
ゼカリヤ14:9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。
歴史のクライマックスは、だれが歴史の主権者であり王であるかが、明らかになることである。イ エスが再び来られることで、主は全世界の王であり、ただひとりであることが明らかになる。ただひとりである主の御名だけがあがめられるようになる。これが主が再び来られる目的である。
人々は、神が世のまことの王であることを認めようとしない。神が歴史の王であり、ただひとりあがめられなければならないにもかかわらず、アダムとエバの堕落後、すべての人間は神だけを高く上げず、自分を高くして虚しい偶像に仕えた。
神は、歴史の中で無数とも言える大小のさばきを通して、神が真の歴史の王であることを教えてい るが、人々は自ら王となることを願い、神ではないものに神のように仕えた。終わりの時に神はさばきを通して神の王権を取り戻される。これを妨げようとする者たちはみな滅ぼされ、これを認めて礼拝する者たちだけが残るようになる。
礼拝とは何であろうか。神が歴史の王であることを認め、あがめることである。この世では、神を礼拝せず認めない者たち、ひいては敵対する者たちも生きることができたが、終わりの時、主イエス が再び来られた後は、神を礼拝しない者たちは決して生き残ることができない。
ゼカリヤ14:16-17 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、 仮庵の祭りを祝うために上って来る。地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
ここでのエルサレムは、新しいエルサレムを意味する。生き残った者たちが入る新しいエルサレム では、神に敵対していたエジプトの民も神を王として礼拝する。一時は神に敵対していた人々も、最後の患難と神のさばきを見て悔い改め、神を礼拝する者たちに変えられる。神は最後までひとりのたましいでも救われ、敵対者たちも礼拝者として変えられる。
本文は、『悔い改めは神の恵み』 (イ・ジェフン著、日本Duranno書院)より、抜粋したものです。