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教会、必ず行かなければいけませんか?
by.CGNTV
hit 2087 recomend 132 2020-02-25 10:15:01

教会、必ず行かなければいけませんか?

 

 

 

イ・サンヒ ホサナ教会 主任牧師、プリンストン神学校 旧約学博士

 

 

私の母教会は、小さな村にある笑い声の絶えない美しい教会でした。しかし、予期せぬ争いにより、教会はたちまちバラバラになってしまいました。当時大学生だった私も、教会を離れなければなりませんでした。今は牧師になっていますが、この経験から、教会に問題が多い場合、それでもその教会に「必ず通いなさい」と言うことは簡単ではないとよくわかっています。しかし、ある教会を離れざるを得なくなったとしても、「一つの教会」で受けた傷のために、「すべての教会」を遠ざけてはなりません。問題が少ない教会はあっても、問題のない教会はありません。しばらくの間、静かだったとしても、いつも平安だとは限りません。教会をノアの箱舟にたとえるのはそのためです。救いの唯一の場所ではありますが、その中には悪臭もあります。

 

必ず教会員にならなければなりませんか?

大学生の頃、大人たちの問題で教会を離れてからつらい時期を過ごしました。どの教会で礼拝そささげるか、毎週決めなければならないことは大変でした。銀行に就職した後は、礼拝が始まる時間ではなく、説教が始まる時間に合わせて教会に行くこともありました。そんな自分の姿を心の中で恥じていたのですが、妹の叱責混じりのアドバイスを聞き、ある教会の教会員になりました。教師として奉仕し、青年たちと聖書の学びや祈りの集まりをする中で、信仰を回復していきました。

今、牧師として現場で見聞きして感じることは、青年の時期に、私のように教会から離れてさまよう人が、次第に増えているということです。かろうじて聖日を守っている人、自ら信仰の休養宣言をする人も増えています。牧会の現場でそのような人に会ったときは、その人の心にどんな傷があるのか分からないため、教会員になるようにとは、あまり勧めません。しかし、彼らが良い教会に所属し、信仰を回復することができるようにと祈ります。教会を移ることは、まるで植物の植え替えをするようなものです。鉢から取り出たらすばやく植えてしまわないと、いくらきれいな花でも枯れ、生命力を失ってしまいます。信仰生活もこれと同じです。

 

母としての教会

教会を離れた後に新しく定着できず、さまようカナンの信徒(クリスチャンでも、教会に行かない人)の増加に加え、最近は牧会者と教会の建物を持たず、一般信徒が身近な場所に集まって礼拝を守るケースも多いそうです。牧会者と教会の建物に対する懐疑的な態度には、プロテスタント教会誕生の背景と関係がないわけではありません。聖職者の腐敗と教会の堕落によって始まった宗教改革は、聖職者と教会に対する抵抗意識が根底にあります。ここから派生する様々な状況に対処するためには、教会に対する聖書的理解の伝統を回復することが必要です。その中の一つを選ぶとすれば、教会を「母」と教える伝統です。詩篇には「しかし、シオンについてはこう言われている。『この者もあの者もこの都で生まれた』」(87:5)とあります。聖徒がシオンを通して生まれたというのです。そのため、このみことばを「“シオンは母だ”と人々が言う。人々がそこから生まれたからだ」と読む伝統を、七十人訳に見ることもできます。詩篇131篇は、神殿を母と理解し、乳離れした子のたとえによって歌っています。乳離れした子は、実に悲しそうに、泣き続けるものです。しかし、母が抱くとすぐに泣き止みます。「都上りの歌」という表題のついた詩篇131篇は、神殿で回復していくたましいの平安を、子が母の胸の中で泣き止むことにたとえます。神殿を母の懐として語っているのです。

教会を母と告白する心が、この時代に回復していくことを願います。神様は私たちの心が母のようなシオンから離れず、近くにとどまることを望んでおられます。神殿に植えられた木のように生きることを望んでおられます。出エジプト記15章17節は、海を分けてイスラエルの子孫を救われた神の究極的な目的を、「あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる」と語っています。詩篇92篇12~14節は、主の家に植えられた神の民が、なつめ椰子の木のように萌え出で、レバノンの杉のように育つと歌っています。また、彼らは、年齢を重ねるほど多くの人生の実を実らせると歌っています。主は、実にシオンから祝福してくださいます(詩 128:5;134:3)。サッカー選手が敵チームのタックルで倒れて悔しい思いをしても、忍耐してフィールドに残り、ゲームに専念してこそ栄光を受けられるように、クリスチャンも忍耐して教会に残ってこそ、主が与えてくださる良い日を見ることができるのです。

 

本文は、『リビングライフ STORY 2020年1月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。

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60.104.***.1502021-02-16 19:08:06 コメント
冗談じゃない
いい年して父にも母にもなれない者が教会にのこのこ出て行けば
恥をかかされるだけだ
教会の牧師や信徒は、結婚もできないような奴は人間の出来損ないだと
心の中で1パーセントも思っていないという保証がどこにあるのか
どうして自分を心の中でバカにしている可能性のあるやつの自慢話を聞いて
金を払わないいけないのか
そもそも、なぜ神は私に価値と能力を与えなかったのか
それがなければ、神がねちねちと要求する心の底からの清い全き信仰などというものは
到底当人の心に宿ることはない