このページをスタートページに設定
このページをスタートページに設定
CGNTV branch
facebook
NETWORK 韓國
USA
china
thai

Home > その他 > @CGN書簡

 Title    礼拝とは、「集中」することです     
 Date  2013-05-13  Hit50

礼拝とは、「集中」することです

 

ヤンジェオンヌリ教会担当牧師    パクジョンギ

 

する人間しい告白は、礼拝です。礼拝は、さのたちの告白し、イエスのなる血潮によってしをけることです。また、礼拝は、をあがめ、賛美するものであり、いやしと回復経験する来事です。そして、礼拝は、さのに、人間れとがきよめられるです。

は、未信者家庭まれ、頃一人教会うようになりました。キリスト背景たないにとって、教会礼拝はあまり馴染みがなく、堅苦しい儀式でした。めて賛美歌り、説教など、教会一連礼式は、戸惑いをえるだけでなく、奇妙にすらじられました。しかし、今振ると、当時私がキリストについてらないながらも、いていたいは、習慣化し、形式化してしまったどんな礼拝にもまして、ばれる礼拝ではなかったかといます。からだは教会ていても、場所にあるなら、礼拝をささげたとはえません。からし、のご臨在めて、ささげる礼拝を、ばれます。めておられないほかの方法でささげる礼拝主人でなく、主人となっている礼拝を、してばれません。える礼拝とは、「集中」することです。

まず第一に、礼拝集中することです。礼拝主人です。礼拝のすべての栄光けられるです。「集中」は英語“concentration”で、“con-”“center-”という単語からなっています。「に」「中心に」くという意味があります。礼拝は、として臨在されるき、臨在ることです。つのつので、集中することです。

「わたしは、いつもわたしをれさせるため、らとらのらの幸福のために、らにつのつのえ」(エレ 32:39)。

礼拝つのぎ、つのえることです。げば、ていきます。ていく過程礼拝です。

第二に、礼拝至聖所集中することです。幕屋は、祭壇のある聖所至聖所仕切ります。礼拝者は、神殿だけにではなく、至聖所までんでです。奥深へとくありません。そこまで、よりくよりくの経験をすることができます。至聖所集中するためには、血潮純潔必要です。れた世俗欲望ったままでは、うことはできません。聖別されたとみことば、そして、イエスの血潮によってまれわったという告白がなければなりません。ですから、至聖所までく「至聖所礼拝」を回復しなければなりません。これこそが、なる臨在栄光する礼拝です。

第三に、礼拝十字架集中することです。たちは、礼拝でささげられる賛美とみことばとりをして、十字架集中しなければなりません。十字架は、たちにするの「しみの二重奏」です。十字架は、たちのいのです。ですから、礼拝でささげられる賛美とみことばをして、たちは十字架見上げなければなりません。賛美は、たましいの告白です。みことばは、たちにしてられる御心るためのです。りは、との対話です。試練い、四方がふさがっているようでも、かれています。また、りは、たましいの呼吸です。礼拝とは、賛美してをあがめ、みことばをしてき、りをしてたちのかちい、十字架だけを見上げて集中することです。

第四に、礼拝さに集中することです。なる御前め、とからだが十字架血潮できよめられるをすることです。礼拝とは、御前時間です。なる御前つために、たちにはイエスの血潮必要です。罪人であることを告白し、あわれみとみをめるのです。礼拝は、二心てることです。そうすることによって、なるることです。は、たちをします。によってれたたちを回復させ、しくまれわらせてくれるのは、イエスの血潮です。さは、たちにしいいのちをえてくれます。さは、たちにイエスが必要だということをらせてくれます。大切なのは、自分ではなく、なのです。

礼拝とは、に、至聖所に、十字架さに集中することによって、ばれる礼拝のために、すべての精神むことです。は、からご自分礼拝する礼拝者めておられます。だれがばせることができるでしょうか。それは、礼拝者です。からし、礼拝する、そのようなめておられます。たちは礼拝して、このような礼拝をささげる経験して、ばれ、える礼拝者になることができるのです。

 

パクジョンギル

国長老会神学大学同大学院卒業国宣教師MBC信友会指導牧師、オンヌリ教会首席牧師、アメリカ、アルバインオンヌリ教会担当牧師など歴任ヤンジェオンヌリ教会担当牧師

 

本文は、『リビングライフ STORY 20125月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。