最高の宣教師、キリスト | |||||
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最高の宣教師、キリスト
ド・ユッカン Duranno 海外宣教会(TIM)理事
イエス・キリストは、世の歴史の中心です。キリストの誕生を中心にして、B.CとA.Dが分かれ、歴史(history)とは、その方についての話(His Story)です。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ロマ 11:36)というみことばの通りです。歴史はイエス・キリストを中心に流れています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ 3:16)。このみことばは、歴史の中で偉大なみわざを行われた神を最もよく表しています。
この短いみことばに出てくる3つの単語に注目してみましょう。まず「神」です。神は、世を創造された方であり、今も世を治めておられる主です。神は聖で、完全で、あらゆる場所に存在され、知らないことがない全知全能の方です。何よりも、神を最もよく表している単語は「愛」です。神は愛であり、その愛は、行動する愛、人類の問題を解決する愛です。2つ目の単語は「世」です。原語は「コスモス」、すなわち「宇宙」ですが、実際には「人間」を意味します。人間は、エデンの園で原罪を負った生まれながらの罪人で、さばきを受けなければならない存在です。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ロマ 3:23)というみことばのとおりです。このような人間のために、神は救いを計画されました。ここで3つ目の単語「神のひとり子」です。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ 5:8)。救われるために自分で何もできない私たちのために、神ご自身が人となって来てくださったのです。この神の愛を完成させるためにこの地に来られた方が、神の御子イエス・キリストです。
ですから、救い主イエスを最高の宣教師と呼ぶこともできます。使徒パウロは、この美しく偉大な出来事を次のように賛美しています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ 2:6~8)。これよりも美しい宣教の詩があるでしょうか。私たちの主は、もともと神の御姿でした。唯一の神であると同時に、三位一体の神の第二格であられました。しかし主は、徹底的にへりくだってご自分を捨て、卑しく弱々しい人間となられました。宣教の主が自ら宣教師となり、喜んでこの地に遣わされました。
聖書には、「宣教」という直接的な単語は出てきません。「宣教」に最も近い単語を選ぶとしたら、「遣わされた者」という意味を持った「アポステロ」という単語でしょう。英語の「使徒」という意味を持った「apostle」の語源となる単語です。イエスは、ご自分を紹介されるとき、いつも「神から遣わされた者」と言われました。「イエスは彼らに言われた。『わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです』」(ヨハ 4:34)。イエスは、遣わされた方のみこころを行い、遣わされた方のみわざを成し遂げるために来られました。国を代表する大使が本国の目的を駐在国で成し遂げるように、主は徹底して神の国の大使として活動されました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」(ヨハ 5:24)。備えられている永遠のいのちの賜物もイエスを遣わされた方を信じる者に与えられると言っておられます。
このように最高の宣教師として来られたキリストが、またご自分の弟子たちを宣教師(使徒、遣わされた者)として世に遣わされるのです。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハ 20:21)。キリストは、父に遣わされ、この地で弟子たちを遣わすことによって神のみこころが行われるようにされました。「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです」(ルカ 10:3)。「イエスはこの十二人を遣わす際……」(マタ 10:5)。宣教師とは、だれでしょうか。キリストから遣わされた者です。遣わされた者は、自分のために生きるのではなく、遣わされた方のみこころを成し遂げる者です。すべてのクリスチャンは、弟子となった瞬間、遣わされた者としての使命を受けます。私たちがこの地でもう少し実力を積み、生きていくべき理由があるとしたら、この地に遣わされた者として、使命を果たすためでしょう。教会のかしらであられるキリストは、この世に教会を遣わされました。「あなたがたは世の塩であり、世の光です」と言われた理由も、この世の真ん中に遣わされた者として、使命を果たすためなのです。
私たちの主が弟子たちと教会を世に遣わすとき、彼らだけを遣わされるのではありません。宣教の源泉であられる聖霊の力を与えてくださいます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使 1:8)。イエスが私たちに委ねてくださった使命を行うことができるよう、聖霊の力を与えてくださるのです。例えるなら、軍隊を召集した国家が戦いに必要なものをすべて提供してくれることと似ています。
イエスがこの地で公生涯の働きを行われる時も、主をこの地に遣わされた父なる神が力をお与えになりました。「……神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです」(使 10:38)。主が多くの病人を癒やし、悪霊を追い出し、いのちのことばを宣言し、十字架を負うことができたのも、聖霊の油注ぎを受けられたからです。
宣教師として来られたイエス・キリストの最初の宣教の目標は、契約を与えられたイスラエルでした。病気の娘を直してほしいと願ったカナンの女に、イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」(マタ 10:5)と言われました。では、イエスの宣教は、ユダヤ人のためだけのものだったのでしょうか。決してそうではありません。キリストはアブラハムとダビデの子孫として来られたので、まずはユダヤ人が宣教の対象だったという意味です。それで使徒パウロも「 福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも」(ロマ 1:16)と言っています。主は、まず選ばれた民が福音によって変えられ、世を変えることを願われたのです。そのために、主は公生涯を生きられるとき、ご自分から多くの異邦人に近づかれました。サマリアの井戸のそばで女にまことの礼拝について教え(ヨハ4章)、カペナウムでは百人隊長のしもべを癒やされました(マタ 8:5~12)。働きの地境もユダヤとガリラヤを超えて、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ツロやシドンにまで至りました。むしろ、多くのたとえを通して、選民だと誇っているユダヤ人ではなく、異邦人に神の恵みが臨むと語っておられます。「神の国はあなたがた(ユダヤ人)から取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」(マタ 21:43)。主の教えと十字架は、ユダヤ人を超えて、すべての異邦世界に向かっていきました。
主が復活された後、宣教の命令はさらに明らかになりました。四福音書の順序どおりに調べてみましょう。まずマタイの福音書では、宣教の目標が明らかにされています。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ 28:19~20)。宣教の目標は「あらゆる国の人々を弟子とすること」です。ある民族、ある階層にも限定されない、あらゆる民族をイエス・キリストの弟子としなさいと言っておられます。
マルコの福音書では、宣教の領域が強調されています。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(マコ 16:15~16)。ここには、宣教の二つの領域が示されています。空間的には「全世界」であり、民族的には「すべての造られた者」が、私たちが宣教するべき範囲です。すべての人に福音が必要だということです。すべての人が福音を聞かなければならず、福音が必要な人が一人でもいる所ならば、世界のどこでも宣教しなければなりません。
ルカの福音書では、宣教の核心メッセージが強調されています。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります」(ルカ 24:46~48)。私たちが伝えるべき宣教のメッセージは、キリストの十字架と復活、そして御名によって与えられる罪の赦しです。
ヨハネの福音書では、宣教の権威がどこから来るのかが示されています。「イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります』」(ヨハ 20:21~23)。宣教の起源は、父なる神から始まりました。また、主に委ねられた使命を弟子となった私たちに委ねられました。私たちに聖霊の力を与え、罪を赦す権威まで与えてくださいました。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(ヨハ 5:17)と言われた主は、今も宣教の働きを続けておられます。私たちに宣教を委ねた後、天で安楽に休んでおられるのではありません。この世界に宣教師として来られたイエスは、十字架と復活によって救いを完成され、今も聖霊を通してこの世界に宣教を続けておられます。イギリスの神学者、B. F. ウェストコットの言葉のとおりです。「イエス・キリストは、恒久的に父なる神が委ねられたご自分の宣教を行っておられ、今もご自分の教会を通して成し遂げておられる。その弟子たちは、新しい宣教の使命を受けたのではなく、主の宣教を行っているのである」 教会である私たちは、共同体とともに主の宣教に与るよう召されました。宣教師イエス・キリストは、今でも私たちとともにおられ、私たちを同労者として召し、収穫のために働くことを願っておられます。私と皆さん、韓国と日本の教会は、主とともに世に仕えるよう遣わされた宣教師なのです。
ド・ユッカン
韓国 長老会神学大学院(神学修士号)。
米国 フラー神学大学院(宣教牧会学博士号)。
韓国 ヤンジ・オンヌリ教会 主任牧師。
Duranno 海外宣教会(TIM)理事。
本文は、『リビングライフ STORY 2020年5月』 (Duranno書院)より、抜粋したものです。